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Event / できごと

銀座煉瓦街

Ginza Brick Town
AD1872年(明治5年)
重要度 3
ロシア帝国大英帝国清スペイン帝国ラタナコーシン朝(シャム)ビルマ日本安南朝鮮王朝フィリピンカンボジアAD1872年(明治5年)東京
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1872年(明治5年)の版図を描いています(11勢力)。

概要

1872年2月、東京の和田倉門の近くから出た火は、銀座から築地にかけての一帯を焼き尽くした。江戸の町は火事に弱かった。政府は、焼け跡を燃えない煉瓦の町に作り変えることを決め、イギリス人の技師トーマス・ウォートルスに設計を任せた。広い通りの両側に歩道と街路樹を設け、二階建ての煉瓦造りの洋風の建物を並べた。1877年に完成した煉瓦街は、文明開化の見本とされたが、湿気がこもって住みにくいと嫌われ、はじめは空き家が目立った。やがて新聞社や洋品の店が集まり、銀座は日本で最も華やかな通りになった。1923年の関東大震災で、煉瓦の建物の多くは崩れた。

場所

東京
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都

本文

江戸の町は、木と紙でできた家が密集し、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるほど、大火が繰り返された。明治になっても事情は同じだった。1872年2月26日、和田倉門の内の旧会津藩の屋敷から出た火は、強い風にあおられて、銀座から築地にかけての一帯の数千戸を焼いた。

政府は、この焼け跡を、燃えない町に作り変えることを決めた。東京府知事の由利公正や大蔵省の井上馨らは、文明開化の見本となる西洋風の町並みを、外国人の目に触れる新橋の駅から築地の居留地へ向かう道筋に作ろうと考えた。設計を任されたのは、大阪の造幣寮などを手がけたイギリス人の技師トーマス・ウォートルスだった。

銀座の大通りの幅は、15間(およそ27メートル)に広げられ、車道と歩道が分けられ、歩道には松や桜、のちに柳が植えられた。1874年には、ガス灯がともされた。通りの両側には、煉瓦造りの二階建ての建物が軒を連ね、一階の正面には列柱の並ぶ回廊が設けられた。煉瓦は、東京の小菅に造られた工場で焼かれた。工事は1877年にほぼ終わり、千を超える煉瓦の建物が並んだ。

だが、煉瓦街は、はじめは人気が無かった。日本の夏の湿気がこもり、壁にはかびが生え、住むと病気になるという噂も流れた。家賃も高く、空き家が目立った。それでも、やがて新聞社や雑誌社が集まり、洋服や時計、洋菓子、文房具を売る店が開いた。木村屋はあんパンを売り出し、服部時計店は時計塔を掲げた。銀座の通りをぶらぶら歩く「銀ブラ」は、大正のころには流行の楽しみになった。

1923年の関東大震災で、煉瓦の建物の多くは崩れ、火に焼けた。煉瓦の造りは地震に弱いことが分かり、復興の銀座には、鉄筋コンクリートのビルが建ち並んだ。煉瓦街の跡は、いまも銀座の通りの広さと、整った区画に残っている。

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