人物

榎本武揚

Enomoto Takeaki
AD1836年10月5日 – AD1908年10月26日(享年72)
日本重要度 4

概要

幕臣。オランダに5年留学し、開陽丸で帰り、江戸開城のあと艦隊を率いて箱館へ。五稜郭で降伏し、黒田清隆が助命した。獄から出て北海道開拓、駐露公使で樺太千島交換条約、逓信・文部・外務・農商務大臣。

所属

日本

関わったできごと(1)

箱館戦争の終結1869年6月27日(明治2年5月18日) · 総裁

本文

榎本武揚は1836年、江戸下谷の御徒町に、幕臣榎本円兵衛の次男として生まれた。幼名は釜次郎。父は備後の出身で、若い頃に伊能忠敬の測量隊に加わって日本地図の作製を手伝い、のちに幕臣の家を継いだ人である。武揚は幕府の学問所である昌平坂学問所で学び、1854年には箱館奉行の従者として蝦夷地と樺太の巡察に加わった。北の大地との縁は、このとき始まった。

開陽丸(1866年頃)
開陽丸(1866年頃)Wikimedia Commons Handelende voor het Japanse Gouvernement, Voorrekening van de Nederlandse Handel-Maatschappij. (Acting for the Japanese · Public domain

1856年、幕府が長崎に開いた海軍伝習所に入り、オランダ人の教官から航海術、造船、砲術、蒸気機関を学んだ。1862年、幕府がオランダに軍艦を発注すると、彼はその建造を見届ける留学生の一人として海を渡った。同行者には、のちに日本の法学と哲学を拓く津田真道や西周がいた。オランダでの5年間、彼は造船所に通いながら、船舶の運用、砲術、化学、そして国際法を学んだ。とりわけ、フランスの外交官オルトランの海の国際法の書物(のちに『海律全書』と呼ばれる)を熱心に学び、書き写した。1867年、完成した軍艦開陽丸に乗って帰国した。当時の日本で最強の軍艦だった。

帰国した翌年、幕府は崩れた。1868年1月、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、将軍徳川慶喜は大坂城を抜け出し、開陽丸に乗って江戸へ帰ってしまった。艦長の榎本は上陸していて、その間に自分の船を持ち去られた形になった。4月、江戸無血開城が決まり、新政府は旧幕府の艦隊の引き渡しを求めた。海軍副総裁となっていた榎本は、性能の劣る数隻だけを渡し、主力艦は手放さなかった。

江戸無血開城に関わる図版:Surrender of Edo Castle (Meiji Memorial Picture Gallery)
江戸無血開城Wikimedia Commons Yūki Somei 結城素明 (1875–1957) · Public domain

1868年8月19日、彼は開陽丸を旗艦とする8隻の艦隊を率いて品川沖を脱出した。旧幕府の陸軍を率いた大鳥圭介、新選組の副長だった土方歳三、フランス軍事顧問団のブリュネらも加わり、総勢は2000人を超えた。目指したのは蝦夷地である。職を失った徳川家の家臣たちを移して北の地を開拓し、同時に北方の守りを担う、というのが掲げた目的だった。房総沖で嵐に遭い、輸送船の美賀保丸が座礁し、咸臨丸ははぐれて清水港で新政府軍に捕らえられた。

10月、艦隊は蝦夷地に上陸し、箱館の五稜郭を占領した。だが11月、松前藩の残党を追って江差に回った開陽丸は、嵐に遭って座礁し、沈んでしまった。海の力を頼みにしていた彼らにとって、取り返しのつかない痛手だった。12月、士官以上による入札(投票)で、榎本が総裁に選ばれた。日本で初めての選挙とも言われ、この政権は「蝦夷共和国」と呼ばれることもあるが、彼ら自身は徳川家のもとで蝦夷地を治める政権だと位置づけていた。

1864年オランダのハーグにて
1864年オランダのハーグにてWikimedia Commons Jacob Hohmann · Public domain

1869年春、新政府軍が蝦夷地に上陸した。4月から5月にかけて激しい戦いが続き、土方は戦死した(箱館戦争の終結)。5月、降伏を勧める新政府軍の参謀黒田清隆に、榎本はオランダから持ち帰った『海律全書』を贈った。この書を戦火で失うのは国のために惜しい、というのである。黒田は感じ入り、返礼に酒を届けたと伝わる。5月18日、榎本は五稜郭を開いて降伏した。

東京で投獄された榎本の処分をめぐっては、厳罰を求める声も強かった。黒田は頭を丸めてまで助命を嘆願したと伝えられ、福沢諭吉も榎本の家族の嘆願を助けるなど、救済に力を貸した。1872年、榎本は特赦で出獄し、黒田が率いる北海道の開拓使に出仕して、鉱物資源の調査にあたった。

オランダ留学時代の榎本武揚(1863~1866年)
オランダ留学時代の榎本武揚(1863~1866年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

彼の知識は、新政府にとって欠かせないものになった。1874年、海軍中将として駐ロシア公使に任じられ、首都ペテルブルクで国境交渉にあたった。翌1875年、樺太をロシア領とし、千島列島を日本領とする樺太・千島交換条約に調印した。その後も海軍卿、駐清公使を歴任し、1885年、内閣制度の創設で最初の内閣ができると、逓信大臣として入閣した。旧幕臣でこの内閣に加わったのは彼だけだった。以後、文部、外務、農商務の大臣を務め、子爵に列せられた。東京農業大学の前身となる学校を開き、電気学会の初代会長を務め、メキシコへの日本人の集団移民(榎本殖民地)を企てたが、これは失敗に終わった。

1891年、福沢諭吉は「瘠我慢の説」を書いて、榎本と勝海舟を批判した。主家が滅びたのに敵の政府で高位にのぼるのは、武士の意地をなくしたものだ、というのである。福沢は二人に原稿を送って意見を求めた。勝は、出処進退は自分のことで、褒めるも貶すも他人の勝手、と答えた。榎本は、多忙なのでいずれ意見を述べる、と短く返しただけで、それ以上は答えなかった。

「戊辰中徳川軍艦八隻品川沖開帆之図」(1868年)
「戊辰中徳川軍艦八隻品川沖開帆之図」(1868年)Wikimedia Commons Masanoshin Kosugi - 小杉雅之進 (1843-1909) · Public domain

1908年10月26日、榎本は東京で死んだ。72歳。賊軍の総裁から明治政府の大臣へ。その歩みを変節と見るか、学んだ知識を新しい国のために使い切った生涯と見るかで、彼の評価は今も分かれている。

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