できごと

大村益次郎の暗殺

Assassination of Ōmura Masujirō
AD1869年10月8日(明治2年9月4日)
重要度 3
ロシア帝国大英帝国清中央アジアの諸ハン国スペイン帝国ラタナコーシン朝(シャム)ビルマ日本安南朝鮮王朝AssamフィリピンカンボジアアラカンAD1869年10月8日(明治2年9月4日)京都
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概要

徴兵制と兵学校の建設を進めた兵部大輔が、京都の旅館で攘夷派の元士族に襲われた。2か月後に敗血症で死んだ。横井小楠の暗殺の8か月後。新政府は、自分の側の攘夷派に二人の設計者を殺された。

場所

京都
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府

関わった人(1)

大村益次郎AD1824年5月30日–AD1869年12月7日 · 襲われた

本文

大村益次郎は、1824年、周防国の鋳銭司村(いまの山口市)に、村医者の子として生まれた。若いころの名は村田蔵六という。大坂の緒方洪庵の適塾で蘭学と医学を学び、塾頭にまでなった。村に帰って医者を継いだが、患者の受けは良くなかったらしい。その後、伊予の宇和島藩に招かれ、オランダ語の兵学書を訳し、提灯張りの職人と力を合わせて、日本人の手で小さな蒸気船を造った。江戸に出てからは私塾を開き、幕府の洋学の研究所や講武所で教えた。医者から、西洋の兵学の第一人者へと移っていったのである。

1860年、故郷の長州藩は、この人物を藩士として迎えた。桂小五郎(木戸孝允)の推しによるものだった。1866年、幕府が長州を攻めた第二次長州征討では、名を大村益次郎と改めた彼が、石見に向かう石州口の軍を指揮した。武士だけでなく農民や町人を交えた隊に、新しい銃を持たせ、散らばって物陰から撃たせる戦い方で、幕府方の軍を破り、浜田城を落とした。

第二次長州征討に関わる図版:Operations map of the Second Choshu Expedition by Sakamoto Ryoma
第二次長州征討Wikimedia Commons Sakamoto Ryoma · Public domain

1868年、戊辰戦争が始まると、大村は江戸に呼ばれた。江戸の城は戦わずに明け渡されたが、旧幕府の側に立つ彰義隊が上野の寛永寺に立てこもっていた。5月15日、大村は総攻撃を命じ、本郷の加賀藩の屋敷から、佐賀藩が持つ最新のアームストロング砲を撃ち込ませ、戦いをその日の夕方までに終わらせた。最も激しい持ち場を割り当てられた薩摩の西郷隆盛が、薩摩の兵を皆殺しにするつもりかと問うと、大村は平然と、そうです、と答えたと伝えられる。このあと東北と箱館に向けた戦い(会津戦争、箱館戦争の終結)でも、大村は江戸にいて作戦を指図した。

愛想の無い人で、知人に「暑いですね」と言われると、夏は暑いのが当たり前です、と答えたという話も伝わる。だが、戦の計算に誤りの少ないことは誰もが認めていた。

大村益次郎
大村益次郎Wikimedia Commons Edoardo Chiossone · Public domain

1869年、藩が土地と人民を朝廷に返した版籍奉還のあと、新政府に兵部省が置かれ、大村は兵部大輔になった。事実上、国の軍を作る責任者である。大村が描いた軍は、藩の兵や士族の兵ではなく、国が身分を問わず国民から兵を集めて作る軍だった。そのために、兵を育てる学校と兵器を作る工場を大阪に置こうとした。大阪を軍の中心にしようとしたのは、反乱が起きるとすれば西の国々からだと見ていたからだと伝えられる。戦死した人々を祀る東京の招魂社、のちの靖国神社を設けたのも大村だった。

大村の構想は、刀を誇りとする士族の存在を否定するものだった。新政府の内部にも、士族を中心とした軍を作るべきだという意見は強く、大久保利通らとも対立した。攘夷を唱えて維新を戦ってきた士族の中には、西洋のやり方を持ち込み、武士を無くそうとする大村を憎む者がいた。

靖国神社参道の中央にある大村益次郎像
靖国神社参道の中央にある大村益次郎像Wikimedia Commons Ōkuma Ujihiro · Public domain

明治2年9月4日(1869年10月8日)の夕刻、大阪の兵学校の予定地などを見て回り、京都の三条木屋町の宿にいた大村を、8人の男たちが襲った。中心にいたのは、長州藩の出身で攘夷を唱える神代直人らだった。同席していた二人が斬り殺され、大村は額や腕、右の膝などを斬られた。大村はとっさに風呂桶の湯の中に身を隠し、命だけは取り留めた。

大村は大阪の病院に移され、オランダ人の医師ボードインらの治療を受けた。右脚の傷が化膿し、命を救うには脚を切り落とすしかないと告げられた。だが、政府の高官の体にメスを入れるには、東京の許しが要るとされ、その返事を待つうちに日がたった。脚が切られたのは、襲撃から50日あまりあとだった。手遅れで、明治2年11月5日(1869年12月7日)、敗血症で亡くなった。数えで46歳だった。

大村益次郎遺址(襲撃された旅館跡)京都市中京区木屋町御池上ル
大村益次郎遺址(襲撃された旅館跡)京都市中京区木屋町御池上ルWikimedia Commons Mariemon · CC BY 3.0

新政府の要人が攘夷派の士族に殺されたのは、これが初めてではない。この年の1月5日には、開国と近代の政治を説き、政府の参与になっていた熊本の横井小楠が、京都の寺町で十津川の郷士らに斬り殺されていた。キリスト教を広めようとしているという、根も葉もない理由だった。徳川の幕府を倒すために「攘夷」を掲げた勢力が、自分たちの政府の中から開国の設計者を失ったのである。大村を襲った者たちは捕らえられたが、処刑の直前に、政府の役人を取り締まる弾正台の幹部が執行に異を唱えて止めさせる騒ぎが起きた。その幹部は大村と対立していた薩摩の海江田信義で、事件の背後に政府内の対立があったのではないかと疑う見方もある。犯人たちは結局、処刑された。

大村の構想は、彼の死後、長州の後輩の山県有朋らに受け継がれ、1873年の徴兵令として形になった。1877年、西郷隆盛が鹿児島の士族を率いて立った西南戦争では、農民や町人の子から集めた政府の軍が、士族の軍を破った。大阪の兵器工場は、その戦いの弾を作った。大村が予見したと伝えられる西からの反乱を、大村の作った仕組みが抑えたことになる。

大村益次郎遭難之碑 京都市中京区木屋町御池上ル
大村益次郎遭難之碑 京都市中京区木屋町御池上ルWikimedia Commons Mariemon · CC BY 3.0

1893年、靖国神社に大村の銅像が建てられた。彫刻家大熊氏廣の作で、日本で最初の本格的な西洋式の銅像とされる。銅像は、上野の山の方角を向いて立っているといわれる。

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