乙未事変

概要
日清戦争のあとロシアに近づいた王妃を、日本公使三浦梧楼が浪人と守備隊で王宮に押し入って殺し、遺体を焼いた。三浦らは広島で裁かれて無罪。高宗はロシア公使館に逃げた。朝鮮で日本への憎しみの起点になった事件。
場所
37.57°N 126.98°E · 大韓民国
関わった人(1)
閔妃(明成皇后)AD1851年11月17日–AD1895年10月8日 · 殺された本文
1895年10月8日の夜明け前、漢城(いまのソウル)の王宮・景福宮に、日本の軍人と警官と民間人の一団が押し入った。彼らは朝鮮国王・高宗の妃、閔妃(明成皇后)を殺し、遺体を焼いた。外国の公使が、駐在先の国の王妃の殺害を指揮した事件である。
その半年前、日清戦争に勝った日本は、下関条約で清に朝鮮の独立を認めさせ、朝鮮への影響力を強めていた。日本の後押しで甲午改革が進められ、親日的な官僚が政府を握った。ところが条約の直後、三国干渉で日本がロシアやドイツ、フランスの圧力に屈して遼東半島を返すと、朝鮮の宮廷は、日本よりロシアの方が頼れるとみた。王妃とその一族はロシア公使ウェーバーと結び、親日派の大臣を退け、日本人の教官が訓練した「訓練隊」という軍隊を解散させようとした。

この形勢をひっくり返すために送り込まれたのが、陸軍出身の三浦梧楼である。外交の経験はほとんどなかった。1895年9月に公使として着任した三浦は、王妃を取り除くことを公使館の書記官や、日本人が出していた新聞の社長らと謀った。表向きの主役には、王妃と長く対立してきた高宗の父・大院君を立てた。朝鮮人どうしの宮廷の争いに見せかける筋書きである。
10月8日未明、大院君を担いだ一行は、訓練隊と日本の守備隊を伴って景福宮に向かった。加わった民間人は「壮士」と呼ばれた浪人たちである。光化門を破って王宮に入ると、奥の乾清宮へ走った。王宮を守る侍衛隊の長・洪啓薫が殺され、宮内府の大臣・李耕稙も斬られた。一行は王妃の住まいである坤寧閤に踏み込み、王妃を探して宮女たちに刀を向け、王妃を殺した。誰が王妃かを確かめるために、何人もの女性が殺されたとされる。遺体は近くの林に運ばれて焼かれた。

隠しおおせると考えたのは誤りだった。宮中にいたロシア人の技師サバティンと、侍衛隊を指導していたアメリカ人の軍人ダイが、日本人が宮殿で動き回る姿を目撃していた。各国の公使が抗議し、日本政府は事件への関与を否定できなくなる。三浦ら関係者は日本へ呼び戻され、広島で裁かれた。翌年1月、予審は、王宮に押し入るまでの計画をかなり詳しく認めながら、王妃殺害を実行した証拠は十分でないとして、民間人48人を全員免訴とした。軍人も軍法会議で無罪となった。三浦はのちに枢密顧問官にまでなっている。
朝鮮の反応は激しかった。事件の直後に親日派の政府が出した断髪令と重なって、各地で儒者たちが義兵を起こした。1896年2月11日、高宗は世子とともに王宮を抜け出し、ロシア公使館に移った。「俄館播遷」と呼ばれ、国王は一年にわたって外国の公使館から国を治めた。親日派の大臣たちは殺されるか日本へ逃れ、日本の影響力は大きく後退した。1897年、王宮に戻った高宗は国号を大韓帝国と改めて皇帝となり、王妃に「明成皇后」の名を贈って、その年の11月に盛大な国葬を行った。
日本はその後、日露戦争を経て大韓帝国を保護国とし、1910年の韓国併合に至る。1919年に高宗が急死すると、日本に毒殺されたという噂が広まり、葬儀に合わせて三・一独立運動が起きた。王妃殺害の記憶は、そのあいだずっと語り継がれていた。

韓国では「乙未事変」あるいは「明成皇后殺害事件」と呼ぶ。日本では長く「閔妃殺害事件」の名で知られてきた。王妃の評価は韓国でも、外国に抗った国母とみるか、一族で政権を私した権力者とみるかで分かれるが、外国の公使の指揮で一国の王妃が王宮で殺されたことは、韓国の日本への不信の原点として記憶されている。景福宮の乾清宮は日本の統治下で取り壊され、2007年に復元された。