人物

陸奥宗光

Mutsu Munemitsu
AD1844年8月20日 – AD1897年8月24日(享年53)
日本重要度 4

概要

紀州藩士の子で、海援隊で龍馬と働き、西南戦争のとき政府転覆を企てて5年獄にいた。出てから欧州に学び、外相として条約改正と日清戦争と三国干渉をさばいた。「カミソリ」。回想録『蹇蹇録』を結核の床で口述した。

所属

日本

関わったできごと(2)

条約改正(日英通商航海条約)AD1894年7月16日 · 外相三国干渉AD1895年4月23日 · 外相

本文

陸奥宗光は、1844年8月20日(天保15年7月7日)、紀州藩の和歌山で生まれた。父の伊達宗広は藩の勘定奉行を務めた重臣で、国学者・歌人としても知られた。だが宗光が幼い頃、父は藩内の政争に敗れて幽閉され、家は没落した。宗光は貧しさの中で育ち、15歳で江戸に出て学んだ。

陸奥宗光の肖像
陸奥宗光の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

幕末、宗光は京で尊王攘夷の志士たちと交わり、勝海舟の神戸海軍操練所に入った。そこで坂本龍馬と出会い、龍馬の亀山社中、のちの海援隊で働いた。商売の才に長け、龍馬は、刀を差さなくても食べていけるのは自分と陸奥だけだと言ったと伝えられる。1867年11月、龍馬が京で暗殺されると(坂本龍馬暗殺(近江屋事件))、宗光は紀州藩士の三浦休太郎が黒幕だと疑い、仲間とともに三浦の宿を襲った。護衛の新選組と斬り合いになり、三浦は逃れた。天満屋事件である。

明治の新政府では、外国事務局の役人から兵庫県知事、神奈川県令を務め、租税の責任者として地租改正の立案に関わった。しかし薩摩と長州の出身者が政府を握ることに不満を募らせ、1877年、西南戦争のさなか、土佐の立志社の一部が企てた政府転覆の計画に通じた。翌1878年に発覚して逮捕され、禁獄5年の刑を受けた。

紀州藩士時代の宗十郎頭巾を着用する陸奥
紀州藩士時代の宗十郎頭巾を着用する陸奥Wikimedia Commons published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) · Public domain

獄中の宗光は学問に打ち込んだ。イギリスの哲学者ベンサムの著作を訳し、のちに『利学正宗』として出版している。1883年に出獄すると、伊藤博文の勧めでヨーロッパへ渡り、ロンドンとウィーンで、議会政治や行政、国際法を学んだ。ウィーンでは伊藤も教えを受けた法学者シュタインに学んでいる。

帰国後は外務省に入り、1888年、駐米公使となった。ワシントンでメキシコとの条約交渉にあたり、日本が初めて対等の立場で結んだ修好通商条約をまとめた。1890年の第1回衆議院議員選挙で和歌山から当選し、山県内閣の農商務大臣になった。衆議院議員として大臣を務めたのは、この内閣で彼一人だった。

1892年、第二次伊藤内閣の外務大臣に就いた。最大の課題は幕末以来の不平等条約の改正だった。1894年7月16日、ロンドンで日英通商航海条約が調印され、領事裁判権の撤廃が決まった(条約改正(日英通商航海条約))。その9日後の7月25日、朝鮮半島沖の豊島で日本と清の艦隊が衝突し、日清戦争が始まった。宗光は、イギリスとの条約で背後を固めたうえで、朝鮮をめぐる清との対立を開戦へと導いた。その手際から「カミソリ大臣」と呼ばれた。

日清戦争に関わる図版:旅顺海军公所
日清戦争Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1895年3月、下関で清の全権李鴻章との講和交渉が始まった。交渉中の3月24日、李鴻章が日本の青年に狙撃される事件が起き、列国の非難を恐れた日本は休戦に応じた。4月17日、講和条約が結ばれ、日本は遼東半島・台湾などを得た。しかし6日後、ロシア・ドイツ・フランスが遼東半島を返すよう求めてきた(三国干渉)。宗光は結核に冒され、兵庫の舞子で療養していた。病床で対応を協議し、列強と戦う力はないとして返還を受け入れた。

病が重くなる中、宗光は日清戦争の外交を振り返る『蹇蹇録』をまとめた。題は、身を顧みず主君のために苦労を重ねる、という『易経』の言葉から取った。外交の機密に触れるため、長く公刊されなかった。その結びに近いところで、彼は当時の状況では他に策はなかったと信じたい、と書いている。

外務省に建立された銅像(戦前)
外務省に建立された銅像(戦前)Wikimedia Commons 人見幾三郎 編 · Public domain

1896年に外相を辞め、1897年8月24日、東京で死んだ。53歳だった。妻の亮子は、もと新橋の芸者で、その美しさから「鹿鳴館の華」と呼ばれた。薩長の藩閥に属さず、獄につながれた過去を持ちながら、明治の外交の頂点に立った人だった。外務省の敷地には、いまも彼の銅像が立っている。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1844年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →