吉田茂
概要
占領下で講和条約を結び、戦後日本の枠組みを決めた。軍備を抑えて経済に賭ける選択をする。
所属
日本関わったできごと(1)
サンフランシスコ講和条約AD1951年9月8日 · 首席全権本文
吉田茂は1878年9月22日、東京で、土佐出身の自由民権家竹内綱の五男として生まれた。生まれて間もなく、父の友人で横浜の貿易商だった吉田健三の養子になる。養父は早く亡くなり、茂は11歳で莫大な遺産を継いだ。学習院を経て東京帝国大学の法科を出て、1906年に外務省に入った。妻の雪子は、大久保利通の次男で宮中の重鎮となった牧野伸顕の娘である。この縁は、のちに吉田が宮中や政界の上層とつながる助けになった。

外交官としては、中国の奉天の総領事などを務めた。若い頃は、満洲での日本の権益を強く守ろうとする立場で、中国に厳しい姿勢をとっている。1928年に外務次官となり、その後、駐イタリア大使、駐イギリス大使を務めた。1930年代、軍部がドイツとの提携を進めると、吉田はイギリスとアメリカとの協調を説いてこれに反対した。1936年に広田弘毅が内閣を組んだときには、外務大臣の候補に挙がったが、自由主義的すぎるとして陸軍に反対され、外された。
太平洋戦争の末期、吉田は近衛文麿らとともに、戦争を早く終わらせるための工作に関わった。1945年4月、そのために憲兵隊に捕らえられ、40日あまり拘束されている。この経歴が、戦後に占領軍から信用される理由の一つになった。

敗戦の後、東久邇宮内閣と幣原内閣で外務大臣を務め、占領軍の総司令官マッカーサーとの交渉にあたった。1946年5月、総選挙で第一党になった日本自由党の総裁鳩山一郎が、首相になる直前に公職追放を受けると、吉田が代わって総裁となり、首相の座についた。政党政治家としての経験はほとんど無かった。第一次内閣のもとで、日本国憲法が公布された。
1947年の総選挙で社会党に第一党を奪われていったん退いたが、1948年に再び首相になり、それから1954年まで政権を担った。首相に任じられたのは通算5回、在任は7年あまりに及ぶ。この間、インフレを抑えるための厳しい緊縮財政(ドッジ・ライン)が敷かれ、多くの人員整理が行われた。1950年に朝鮮戦争が始まると、占領軍の求めで警察予備隊が作られ、のちに保安隊、自衛隊へと改められていく。

吉田の最大の仕事は、講和だった。1951年9月、サンフランシスコの講和会議に首席全権として出席し、サンフランシスコ講和条約に調印した。翌年の発効で、日本は主権を回復した。ソ連や中国は加わらず、全ての交戦国と結ぶべきだという全面講和論も国内に強かったが、吉田は、まず西側諸国と結んで独立を取り戻す道を選んだ。同じ日の午後、別の場所で日米安全保障条約に署名している。日本全権の中で、この署名に臨んだのは吉田一人だった。責任を自分だけで負うためだったと説明される。
アメリカは日本に本格的な再軍備を求めたが、吉田は、憲法と国民の感情、そして経済の弱さを理由に、要求をかわし続けた。安全はアメリカとの条約に頼り、限られた資源を経済の復興に回す。のちに吉田ドクトリンと呼ばれるようになる路線である。ただし、この呼び名は吉田の在任中のものではなく、後の時代の研究者や評論家がつけたものだ。本人も晩年には、軍備を持たないままでよいとは考えていなかったと書いている。

吉田は、相手が誰でも遠慮せずに物を言い、記者にコップの水を浴びせたこともある。葉巻をくわえ、和服に白足袋で通し、「ワンマン」と呼ばれた。1953年2月、衆議院の予算委員会で社会党の議員の質問に腹を立て、席に戻りながら「バカヤロー」とつぶやいた。この一言をきっかけに懲罰動議が出され、内閣不信任案が可決されて、衆議院は解散になった。バカヤロー解散と呼ばれる。
1954年、造船会社から政界への献金をめぐる疑獄事件で、法務大臣が検察の捜査に指揮権を発動して与党幹事長の逮捕を止めた。世論の批判を浴び、党内でも追放から戻った鳩山一郎らが離反して、同年12月、内閣は総辞職した。

首相を退いてからは、神奈川県大磯の邸に住んだ。大磯には、首相の座を目指す政治家たちが訪ねてきた。吉田が官僚から政界へ引き入れた池田勇人や佐藤栄作らは「吉田学校」と呼ばれ、のちに首相として所得倍増計画をはじめとする高度成長の時代を担った。1967年10月20日、吉田は大磯で死んだ。89歳。戦後初めての国葬が営まれた。
吉田の選んだ道は、独立と引き換えに外国の軍隊を国内に置き続けることでもあった。安全保障をアメリカに頼る形は、1960年の安保闘争をはじめ、その後も国論を二分する争点になり続けている。戦後日本の枠組みを決めた政治家として、評価もまた、その枠組みをどう見るかによって分かれている。