人物

渋沢栄一

Shibusawa Eiichi
1840年 – 1931年(享年91・推定)
日本重要度 4

概要

幕臣から新政府へ移り、銀行と会社の仕組みを日本に根づかせた。生涯で500社に関わる。

所属

日本

関わったできごと(1)

第一国立銀行AD1873年 · 設立

本文

渋沢栄一は1840年、武蔵国の血洗島村(いまの埼玉県深谷市)の農家に生まれた。家は畑作と養蚕のほか、藍の葉を買い集めて染料の藍玉に加工し、信州や上州の紺屋に売る商いをしていた。豪農と呼べる家で、栄一は少年の頃から父について藍の買い付けに回り、商売の勘所を覚えた。学問は、10歳ほど年上の従兄尾高惇忠のもとで漢籍を学んだ。17歳のとき、代官所に呼び出されて御用金を命じられ、年若い代官から見下すような扱いを受けた。家に帰って、百姓に生まれたことの理不尽を思い知ったと、晩年に回想している。

渋沢栄一の肖像
渋沢栄一の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

尾高らとの交わりの中で、栄一は尊王攘夷の思想に染まった。1863年、仲間と語らって、上州の高崎城を乗っ取り、武器を奪って横浜の外国人居留地を焼き討ちにする計画を立てた。決行の直前、京都の情勢を見てきた尾高の弟長七郎が、無謀だと必死に止め、計画は取りやめになった。幕府の追及を恐れた栄一は京都へ逃れ、そこで一橋家の家臣平岡円四郎に見込まれて、一橋慶喜に仕えることになる。討幕を企てた若者が、将軍家の一門の家臣になった。

一橋家では、領内の農民から兵を集め、年貢米の売り方を改め、藩札を整えるなど、財政の仕事で頭角を現した。1866年、主君の慶喜が将軍となると(徳川慶喜)、栄一も幕臣になった。翌1867年、慶喜の弟徳川昭武がパリ万国博覧会に将軍の名代として派遣されると、栄一はその随員として、会計や庶務を受け持ってフランスへ渡った。

渋沢栄一の肖像写真
渋沢栄一の肖像写真Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ヨーロッパでの1年半は、栄一の生涯を決めた。博覧会で各国の機械や産業を見ただけでなく、銀行家や役人が対等に言葉を交わし、多くの人から少しずつ金を集めて大きな事業を起こす仕組みを目の当たりにした。銀行と株式会社、債券、そしてそれを支える法律である。滞在中に幕府は倒れ、1868年の暮れに帰国した栄一は、静岡に移った慶喜のもとで、藩の資金と商人の出資を合わせた商法会所を作った。日本で最も早い、株式会社に似た組織の一つとされる。

1869年、大隈重信に説き伏せられて新政府の民部省・大蔵省に入った(大隈重信)。旧幕臣の自分が新政府に仕えることにはためらいがあったが、新しい国の仕組みを作る仕事だと言われて応じた。租税、貨幣、度量衡、郵便、鉄道、富岡製糸場の設立など、仕事は多岐にわたった。国立銀行条例の起草にも関わった。しかし1873年、各省の予算要求を抑えようとして政府内で対立し、上司の井上馨とともに大蔵省を辞めた。官の仕事より民の力を育てることが必要だ、という考えからでもあった。

幕臣時代の渋沢(1866年頃)
幕臣時代の渋沢(1866年頃)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

辞職の直後、栄一は第一国立銀行の総監役、のちに頭取となった。国立銀行といっても国の銀行ではなく、国の条例に基づいて作られた民間の銀行である。三井と小野組という二つの大商人が出資の中心だったが、翌年に小野組が破綻し、銀行は存亡の危機に立たされた。栄一は貸付の担保を確保していたことで切り抜け、以後、銀行の経営を通じて多くの会社に資金をつないでいった。製紙、紡績、保険、海運、鉄道、ガス、ホテル、ビール、そして証券取引所。設立や経営に関わった会社は500ほどにのぼるとされる。

栄一は、多くの人から資本を集め、事業の利益を出資者に広く返す合本主義を唱えた。自分の一族で会社を囲い込む財閥は作らなかった。三菱を築いた岩崎弥太郎から、二人で組めば日本の実業界を思いのままにできる、と誘われたが、独占を嫌って断り、物別れになったという話が伝わる。実際に、海運では三菱に対抗する会社の設立を後押しし、激しい競争の末に合併して日本郵船が生まれている。

栄一は商工会議所を組織して実業家の声をまとめ、商業教育の学校(のちの一橋大学)や、女子教育の学校を支えた。孤児や病人、身寄りの無い老人を収容する東京養育院の院長は、50年あまり務めた。関わった社会事業は600に及ぶとされる。1916年、76歳で実業界を引退し、同じ年に講演をまとめた『論語と算盤』を出した。利益を追うことと道徳は矛盾しない、正しい道理に基づく富でなければ長続きしない、という主張で、『論語』の成立を商いの手引きとして読み直したものである。

『論語』の成立に関わる図版:Rongo Analects 02
『論語』の成立Wikimedia Commons Confucius and his disciples, · Public domain

晩年は、アメリカでの日本人移民の排斥が強まるなか、民間の立場から日米の関係を保とうと奔走した。日本とアメリカの子どもたちの間で人形を贈り合う交流も後押ししている。1931年11月11日、91歳で死んだ。2024年から、一万円札の肖像になっている。藍玉を売り歩いた農家の少年が、近代日本の会社という仕組みそのものを根づかせた。その道筋は、攘夷の志士、将軍家の家臣、新政府の官僚と、立場を何度も変えながら続いたものだった。

動画(2)

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