明治天皇
概要
15歳で即位し、王政復古から近代国家の成立までを名において担った。
所属
日本関わったできごと(1)
五箇条の御誓文1868年4月6日(慶応4年3月14日) · 誓った本文
1852年、京都で、孝明天皇の第二皇子として生まれた。母は公家の中山忠能の娘、慶子である。名は睦仁、幼名は祐宮。数え5歳まで、御所の外にある中山家で育てられた。生まれた翌年、ペリーの艦隊が浦賀に来ている。幕末の動乱は、この人の幼年期とちょうど重なる。
1867年のはじめ、父の孝明天皇が天然痘で急死した。毒殺されたという説が当時からあったが、確かな根拠は無い。睦仁は満14歳で皇位を継ぎ、翌1868年に即位の礼をあげた。15歳である。皇位を継いだ年の秋から即位の礼までのあいだに、大政奉還、王政復古の大号令の大号令、鳥羽・伏見の戦いの戦いと、政権が目の前で入れ替わっていく。

生涯に何を自分で決めたのかは、はっきりしない。政策は政府が決め、天皇の名で出された。本人の意思がどこまで働いたかを示す史料は限られている。1868年3月の五箇条の御誓文は、天皇が公家と大名を率いて神々に誓う形をとった。広く会議を開き、万機公論に決すべし、と始まるこの誓いは、新しい政府の方針を天皇の口から示す最初の場になった。
一方で、その名前が持つ意味は絶大だった。錦の御旗が翻れば軍が動き、勅語が出れば議論が止まる。使われる権威と、使う人が分かれていた。大久保利通や岩倉具視ら政府の中心にいた人々は、少年の天皇を、新しい国をまとめる中心として育てようとした。

同じ年の秋、元号が明治に改められ、天皇一代のあいだは元号を変えないと定められた。それまで元号は、天災や吉事のたびに改められていた。その後、天皇は京都を出て江戸城に入り、江戸は東京と改められる。いったん京都へ戻ったのち、翌年再び東京へ移り、以後そのまま住んだ。都を移すという正式の布告は出されていない。
それまで京都の御所の奥から出なかった存在が、人前に姿を見せるようになる。洋装で公務に臨み、髷を落とし、髭をたくわえた。1872年からは全国を回る大がかりな巡幸を何度も行い、九州から北海道まで、各地の人々の前に現れた。人々は初めて、天皇という存在を目で見ることになる。

若い頃は酒が強く、乗馬を好んだ。侍従として仕えた剣客の山岡鉄舟に、酔って相撲を挑み、投げ返されたという話が伝わる。学問は、儒学者の元田永孚が師となって教えた。一方、写真を撮られることは嫌ったとされ、広く配られた肖像は、イタリア人の画家キヨッソーネが描いた絵を写真に撮ったものである。この「御真影」は全国の学校に配られ、儀式の中心に置かれた。
1877年の西南戦争では、維新の功臣だった西郷隆盛が政府に背いて死んだ。天皇は西郷を惜しんだと伝えられ、西郷はのちに名誉を回復される。1882年に軍人勅諭が出され、軍は天皇に直接属するものとされた。
1889年、大日本帝国憲法の発布が発布された。天皇が定めて国民に与える形の憲法で、天皇は国の元首として統治権を総攬すると書かれた。ただ、実際の政治は大臣が天皇を補佐し、責任を負う仕組みで動いた。翌1890年には教育勅語が出され、忠孝を中心とする徳目が、学校教育の柱になった。

その前、1881年の明治十四年の政変のさなかには、10年後に国会を開くと約束する勅諭が天皇の名で出されている。政府の内部の争いを収めるために、天皇の言葉が使われた形だった。
日清戦争のときには、戦争を指導する大本営とともに広島へ移り、半年余りそこで過ごした。日露戦争にも勝ち、日本は列強の一つに数えられるようになる。一方、日清戦争の開戦には乗り気でなかったという記録も残っている。

1891年、来日中のロシア皇太子ニコライが、滋賀の大津で警備の巡査に斬りつけられた。大国の報復を恐れた政府の中で、天皇は自ら京都へ急ぎ、皇太子を見舞った。神戸に停泊するロシアの軍艦に招かれると、連れ去られる危険を言う側近を退けて乗り込み、食事をともにしたと伝えられる。
和歌を好み、生涯に詠んだ歌は9万首を超えるといわれる。日露戦争のさなかに詠んだ、四方の海はみな兄弟だと思う世に、なぜ波風が立ち騒ぐのか、という意味の歌は、のちに昭和天皇が太平洋戦争の開戦前の会議で読み上げたことで知られる。

皇后美子とのあいだに子は無く、側室とのあいだに15人の子をもうけたが、成人したのは5人だった。跡を継いだ大正天皇も、側室の柳原愛子の子である。
1912年7月30日、糖尿病からくる腎臓の病で死んだ。59歳。9月の大喪の夜、陸軍大将の乃木希典が妻とともに殉死し、社会に大きな衝撃を与えた。のちに東京の代々木に明治神宮が建てられる。

死後、その名が時代の名として使われるようになった。一世一元の制が定着した最初になる。明治という時代は、この人の人生のうち、15歳から59歳までとほぼ重なる。本人が何を考えていたかは見えにくいまま、その名のもとで、日本は近代国家へ作り替えられた。