できごと

学制の公布

Gakusei (Education System Order)
AD1872年9月5日(明治5年8月3日)
重要度 4
ロシア帝国大英帝国清スペイン帝国ラタナコーシン朝(シャム)ビルマ日本安南朝鮮王朝フィリピンカンボジアAD1872年9月5日(明治5年8月3日)東京
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概要

「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」。全国を8大学区、256中学区、5万3760小学区に分けた。授業料は親の負担で、就学率は最初3割。学校が焼き討ちされた県もある。それでも30年で9割になった。

場所

東京
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都

本文

江戸時代の終わりの日本は、読み書きのできる人が多い国だった。武士の子は藩校で学び、町や村の子の多くは寺子屋で読み書きとそろばんを習った(寺子屋)。だが、それは身分ごとに、親が望む者が通うものだった。国中の子どもを同じ仕組みで学ばせる学校は、まだなかった。

明治の新政府にとって、それは急いで作らなければならないものだった。欧米の国々に追いつくには、工場で働き、兵となり、新しい制度を理解する国民が要る。1871年に文部省ができると、ヨーロッパの教育の仕組みが調べられた。

1872年9月4日(明治5年8月2日)、太政官は学問を勧める布告を出した。「学事奨励に関する被仰出書」と呼ばれる。学問は身を立てるための元手である、と説き、これからは華族・士族・農工商の民も女子も区別なく、村に学ばない家がなく、家に学ばない人がいないようにする、と宣言した。学問を国のためではなく、一人ひとりが身を立てるためのものとして語っているところに、この時代の空気が出ている。同じ年に出た福沢諭吉の『学問のすゝめ』も、同じ考えを説いて大いに売れた。

翌日、文部省は学制を定めた。手本にしたのはフランスの学区制である。全国を8つの大学区に分け、1つの大学区を32の中学区に、1つの中学区を210の小学区に分けた。計算すると小学校は5万3760校、人口およそ600人に1校となる。小学校は下等と上等の4年ずつで、6歳から通う。壮大な計画だった。

だが、そのための金を国はほとんど出さなかった。学校の費用は地元の住民が負担し、授業料は親が払う。授業料の目安は月50銭とされ、米1升が数銭の時代には農家にとって重い額だった。校舎を建てる余裕のない村は、寺や民家を借りて学校にした。寺子屋の師匠がそのまま先生になったところも多い。一方で、長野県の松本の開智学校のように、住民が金を出し合って洋風の立派な校舎を建てた町もあった。

学校に通う子どもの割合は、1873年で3割に満たず、女の子は15パーセントほどだった。農家にとって子どもは大事な働き手で、学校へやれば仕事の手が減るうえに授業料まで取られる。学校の費用のために税が増えることへの反発も強かった。1873年、同じ頃に出た徴兵令や新しい税への反発と重なって、岡山の美作や福岡の筑前などで大きな一揆が起き、役所や戸長の家とともに学校が打ち壊され、焼かれた。新しい学校は、民衆にとって新政府の押しつけの象徴でもあった。

計画が実情に合わないことは、政府にも分かってきた。1879年、学制は廃止され、アメリカの制度にならって地方の裁量を大きくした教育令が出された。すると今度は学校を閉じる村が相次ぎ、就学率が下がったため、翌年には国の統制を強める方向へ改められた。1886年、初代文部大臣の森有礼は小学校令などの学校令を定め、小学校から帝国大学までの道筋を整えた。1890年には教育勅語が出され、教育の目的は天皇の臣民を育てることに置かれた。

教育勅語に関わる図版:50th Anniv.of Imperial Rescript on Education
教育勅語Wikimedia Commons 大日本帝国逓信省 · Public domain

授業料は、1900年に原則として取らないことになった。これを境に就学率は一気に伸び、1902年に9割を超え、1910年ごろには男女とも98パーセントに達した。1907年には義務教育が6年に延ばされた。学制から30年あまりで、日本はほぼすべての子どもが小学校に通う国になった。

その速さを支えたのは、寺子屋が育てた読み書きの土台と、師匠たちの存在だったと言われる。一方で、学制は寺子屋を新しい学校に吸収し、地域ごとの学びのあり方を一つの型にそろえていった。そして、学制が掲げた「身を立てる」ための学問は、20年足らずのうちに、国家に尽くす臣民を育てる教育へと姿を変えた。その両方が、近代日本の学校の出発点にある。

動画(1)

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