教育勅語

概要
315字。父母に孝、兄弟に友、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」。井上毅と元田永孚が書いた。学校で暗誦させ、御真影と共に奉安殿に置いた。1948年、国会が失効を決議した。
場所
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都
本文
1889年に大日本帝国憲法が発布され(大日本帝国憲法の発布)、翌年には第一回の帝国議会が開かれることになっていた(第一回帝国議会)。その一方で、明治の初めから進めてきた西洋式の教育について、知識ばかりを教えて道徳がおろそかになっているという不満が、政府と地方の役人の中に強まっていた。1890年2月の地方長官会議は、徳育の方針をはっきり定めるよう政府に求める建議をまとめた。首相の山県有朋はこれを受けて、文部大臣の芳川顕正に、教育の根本を示す文書を作らせた。
最初の草案は、啓蒙思想家の中村正直が書いた。だが法制局長官の井上毅がこれに強く反対した。井上は、立憲の国では君主が臣民の良心の自由に立ち入るべきではないと考え、作るのであれば、特定の宗教や哲学の議論に触れず、政治の色を帯びさせず、政府の命令ではなく天皇が語りかける言葉の形にすべきだと主張した。そのうえで自ら草案を書き、天皇の側近で儒学者の元田永孚と何度も手を入れ合った。儒教の徳目を重んじる元田と、立憲の体裁を守ろうとする井上の考えが、一つの文の中で折り合わされていった。

1890年10月30日、明治天皇は山県と芳川を宮中に呼び、この勅語を授けた。漢字と片仮名で315字。普通の法律や勅令と違い、大臣の副署が無い。天皇が個人として臣民に語りかけるという形であり、法としての効力は持たない。それは井上の意図どおりだったが、そのために議会も内閣も手を出すことができない文書になり、その後50年以上、一字も改められなかった。
文面は三つに分けて読まれる。最初に、天皇の祖先が国を開き、臣民が忠と孝で心を一つにしてきたことこそ国の誇りであり、教育の源であると述べる。次に、守るべき徳目を並べる。父母に孝行し、兄弟は仲良く、夫婦は和やかに、友は信じ合い、身を慎み、人に博く愛を及ぼし、学問を修め、法を守る。そして「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」、つまり国に一大事があれば勇んで身を捧げ、永遠に続く皇室の運命を助けよ、と続ける。最後に、この道は昔から今まで誤りがなく、国の内外に行っても道理に背かないと結ぶ。並べられた徳目の多くは誰もが頷くものだが、それらは皇室を支えるための道として位置づけられていた。
勅語の写しは、全国の学校に配られた。各地の学校には天皇と皇后の写真(御真影)も下賜されていき、勅語とともに大切に保管された。1891年には学校の祝日や大祭日の儀式の決まりが作られ、校長が白い手袋をはめて勅語を捧げ持ち、厳かに読み上げ、生徒は頭を垂れて聞くという儀式が全国で行われるようになった。同じ1891年1月、第一高等中学校の勅語の奉読式で、教員の内村鑑三が礼の仕方が不十分だと非難され、職を追われている(内村鑑三不敬事件)。

時代が下るにつれ、勅語は神聖さを増していった。子どもたちは意味も分からないうちに全文を暗誦させられ、修身の教科書は勅語の解説になった。学校が火事になったとき、御真影と勅語を運び出そうとして焼け死んだ校長や教員もおり、殉職として称えられた。1930年代には、火事や地震から守るため、校庭の一角に鉄筋の奉安殿を建てる学校が増え、児童は登下校のたびにそこへ最敬礼した。
1945年の敗戦のあと、占領軍は学校から軍国主義と国家神道を取り除くよう命じた。文部省は1946年、勅語を教育の唯一の源とする考えを改め、式の日に読み上げることもやめるよう各学校に通知した。1947年に日本国憲法の施行(日本国憲法)と前後して教育基本法が作られ、1948年6月19日、衆議院は「教育勅語等排除に関する決議」を、参議院は「教育勅語等の失効確認に関する決議」を可決した。衆議院の決議は、勅語の根本の考えが主権在君と神話的な国体観に基づき、基本的人権を損なうものだと述べた。学校に残る写しは回収された。

それでも、勅語をめぐる議論は終わっていない。戦後も、親孝行や友を信じるといった徳目は良いものだから評価すべきだという声は、政治家の間から繰り返し上がった。2017年3月、政府は、憲法や教育基本法に反しない形で教材として用いることまでは否定されないとする答弁書を閣議で決めた。同じころ、大阪の学校法人森友学園の幼稚園で園児に勅語を暗誦させていたことが報じられ、大きな議論になっていた。良いと言われる徳目も、戦争に身を捧げよという一節も、同じ315字の中にある。