人物

大久保利通

Okubo Toshimichi
1830年 – 1878年(享年48・推定)
薩摩藩重要度 5

概要

西郷の幼馴染。維新後は中央集権化を冷徹に進め、暗殺された。

所属

薩摩藩

関わったできごと(3)

廃藩置県1871年8月29日(明治4年7月14日) · 主導岩倉使節団1871年 · 副使大久保利通の暗殺1878年5月14日(明治11年5月14日) · 当人

本文

1830年、薩摩藩の鹿児島城下、下加治屋町に生まれた。西郷隆盛とは同じ町内で、3歳下の幼馴染になる。下級の藩士の家で、町内の若者が集まって学ぶ「郷中」の中で育った。性格は西郷と正反対で、感情を表に出さず、黙って実務で押す人だったと言われる。

大久保利通の肖像
大久保利通の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

20歳のころ、藩主の跡継ぎをめぐる争い(お由羅騒動)に父が連座して島流しになり、自身も役を解かれた。家は困窮し、借金で暮らした時期がある。この挫折から抜け出す足がかりになったのが、藩主の父として実権を握った島津久光への接近だった。久光の好む碁を習い、その相手として近づいたという話が伝わる。1862年、久光が兵を率いて京と江戸へ上り、幕府に改革を迫ったとき、大久保はその実務を担っている。

討幕までは西郷と組んだ。島に流されていた西郷を呼び戻すよう働きかけたのも大久保である。1866年の薩長同盟のあと、公家の岩倉具視と結んで朝廷工作を進めた。1867年の大政奉還で徳川の政権が形のうえで終わると、すかさず王政復古の大号令の政変を仕掛け、慶喜を新政府から外した。

薩長同盟に関わる図版:Satsuma-samurai-during-boshin-war-period
薩長同盟Wikimedia Commons Felice Beato · Public domain

その少し前、岩倉とともに薩摩と長州へ「討幕の密勅」を下させている。大政奉還と同じ日付の文書だが、天皇の署名や正式の手続きを欠いており、偽の勅とする見方が古くからある。目的のためには手段を選ばない、大久保らしい一手とされる。

新政府が京に置かれると、公家と古い慣習に囲まれた都を離れるべきだとして、大坂への遷都を唱えた。結局、都は江戸を改めた東京へ移されたが、天皇を御所の奥から引き出し、人前に立つ君主に変えようとした発想は、大久保の構想に始まるとされる。

維新後は、藩をなくすことを急いだ。版籍奉還で土地と人民を朝廷に返させ、1871年の廃藩置県で藩そのものを廃した。武士の主君がいなくなる改革で、反乱が起きてもおかしくなかったが、西郷が率いる兵の力を後ろ盾に一夜で発表した。

廃藩置県に関わる図版:Modern Japan prefectures map in 1872
廃藩置県Wikimedia Commons Yoshida Togo (1860-1932) et al · Public domain

同じ年、岩倉使節団の副使として欧米を回った。工場、議会、鉄道を見て、いまは外に出るより国内を固めるべきだと判断する。ドイツでビスマルクに会い、小国が強国の間で生き残る話に強く惹かれたと伝わる。

私生活では寡黙で、内務省の廊下に大久保の靴音が聞こえると、役人たちの私語がぴたりと止んだという話が伝わる。いち早く洋服を着こなし、写真に残る姿も整っている。一方で家庭では子煩悩だったといわれ、次男の牧野伸顕はのちに外務大臣や内大臣を務めた。その娘は吉田茂に嫁いでいる。

明治4年12月から翌年1月頃(サンフランシスコ)
明治4年12月から翌年1月頃(サンフランシスコ)Wikimedia Commons サンフランシスコ「Yosemite art Gallery」 · Public domain

帰国すると、留守を預かっていた西郷らが朝鮮への使節派遣を決めていた。大久保はこれに反対し、1873年の征韓論政変で西郷、板垣退助らを政府から去らせた。直後に内務省を作り、自ら内務卿となる。警察、地方行政、産業振興を一手に握る役所で、以後の数年は「大久保政権」と呼ばれる。殖産興業を進め、地租改正で税を米から金納に改め、学制の公布に続く教育の整備を後押しした。

そのやり方は強引で、敵は多かった。1874年の佐賀の乱では自ら現地に乗り込み、首謀者の江藤新平を裁判にかけて、さらし首にした。かつての同僚に対する容赦の無さは、当時から非難された。同じ年の台湾出兵の後始末では、自ら北京へ行って清と交渉した。交渉は50日近くに及び、決裂寸前でイギリス公使の仲介を受けて、清が50万両を支払うことで決着する。戦争を避けつつ、台湾の先住民に殺された琉球の人々を「日本国属民」と清に認めさせた形になり、のちの琉球の併合への布石にもなった。

右側は大久保、左側が堺県知事時代の税所篤と思われる。大久保の日記(明治四年五月六日条)に「今日税所子同行写真所等江参」とある。大久保は洋装で、刀を差している。
右側は大久保、左側が堺県知事時代の税所篤と思われる。大久保の日記(明治四年五月六日条)に「今日税所子同行写真所等江参」とある。大久保は洋装で、刀を差している。Wikimedia Commons Youtou · Public domain

1877年の西南戦争で、旧友を討つ側に立った。西郷の死を聞いたとき、人前で泣いたと伝わる。

その戦争のさなかの1877年8月、東京の上野で第1回の内国勧業博覧会を開いている。各地の産物と機械を集めて見せ、産業を興す手本にする催しで、大久保が中心となって準備したものだった。戦の勝敗が決まらないうちから、戦の後の国づくりを進めていたことになる。

大礼服と軍刀を身に着けた大久保利通
大礼服と軍刀を身に着けた大久保利通Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

翌1878年5月14日の朝、出勤の途中、紀尾井坂で石川県の士族らに襲われて死んだ。満47歳。その朝、訪ねてきた地方官に、明治の30年を10年ずつに分け、最初の10年は創業、次の10年は内政を整え、最後の10年は後継者に守らせる、自分は次の10年を務めたいと語っていたという記録がある。大久保利通の暗殺のとき、懐に西郷からの手紙を入れていたという話も伝わる。

死後に残ったのは、わずかな現金と多額の借財だった。予算のつかない公共事業の不足を、自分の名義で借りて埋めていたことが分かった。大久保の死によって、維新の三傑と呼ばれた西郷、木戸、大久保は、わずか1年ほどのうちに皆いなくなった。冷酷な独裁者という評判と、私財を残さなかった清廉さが、同じ一人の中にある。暗殺の現場に近い東京の清水谷公園には、のちに哀悼の碑が建てられた。明治の国の骨組みの多くは、この人が内務卿だった5年ほどの間に組まれている。

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