日英同盟
概要
「光栄ある孤立」を捨てたイギリスが、アジアで最初に選んだ相手が日本だった。ロシアの南下を止めるため。日本は対等の同盟国として認められ、2年後の戦争で、イギリスの海図と金と情報を使った。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
本文
19世紀のイギリスは、どの大国とも同盟を結ばず、海軍の力と勢力の釣り合いで世界の帝国を守る道をとっていた。のちに「光栄ある孤立」と呼ばれる外交である。だが19世紀の終わり、その余裕は失われつつあった。ドイツは大きな艦隊を作り始め、ロシアは中央アジアから東アジアへと南へ手を伸ばしていた。
1895年、日清戦争に勝った日本が遼東半島を手に入れると、ロシアはドイツとフランスを誘って、その返還を迫った(三国干渉)。イギリスはこれに加わらなかった。3年後、ロシアは日本に返させたその遼東半島の旅順と大連を清から租借し、イギリスも対抗して威海衛を租借した。1900年、清で義和団が蜂起すると(義和団の乱)、ロシアはこれを機に満洲を軍で占領し、乱が収まっても兵を引かなかった。

イギリスは身動きがとれなかった。南アフリカでは1899年からボーア戦争(ボーア戦争)が続き、帝国じゅうから集めた数十万の兵を送り込んでいた。極東に大きな艦隊を回す余力はない。ロシアのシベリア鉄道は完成に近づき、そうなればロシアの兵は陸路で満洲へ運ばれてくる。中国での権益を守るために、極東で海軍を持つ国と組む必要があった。その相手として浮かんだのが日本だった。
日本の中でも、道は二つに分かれていた。元老の伊藤博文は、ロシアと話し合い、満洲をロシアの、韓国を日本の勢力の範囲と認め合う「満韓交換」で衝突を避けようとした。一方、山県有朋や首相の桂太郎、外相の小村寿太郎は、ロシアとの約束は当てにならず、イギリスと組んでロシアに備えるべきだと考えた。1901年の春から、ロンドンの駐英公使林董が、外相ランズダウンと非公式の話し合いを重ねていた。ドイツを加えた三国の同盟という案もあったが、ドイツは乗らなかった。

1901年11月、伊藤はロシアの首都ペテルブルクに入り、ロシアとの交渉を探った。そのあいだにも、桂の内閣はロンドンでの交渉を進めた。12月7日、元老たちの会議は、イギリスとの同盟を選んだ。伊藤は、ロシアとの話がまとまるまで待つよう求めたが、その声は届かなかった。
1902年1月30日、ロンドンのランズダウン外相の邸で、林とランズダウンが条約に署名した。条約は6条からなる。両国は清と韓国の独立と領土の保全を認め、イギリスは清に、日本はさらに韓国に、政治と商工業の上で特別な利益を持つことを認め合う。一方がその利益を守るために他の一国と戦争になったときは、もう一方は中立を守り、他国が敵の側に加わるのを防ぐ。二国以上を相手にする戦争になったときは、参戦して共に戦う。期限は5年だった。

ヨーロッパの大国が、アジアの国と対等の同盟を結んだのは、これが初めてだった。2月12日に条約が公表されると、東京では祝いの提灯行列が出た。幕末に不平等な条約を押しつけられた国が、半世紀で世界一の帝国の相手として認められた、と人々は受け取った。
同盟が本当に試されたのは、2年後の日露戦争である。ロシアにはフランスという同盟国があったが、フランスが加われば条約によってイギリスが日本の側で参戦することになる。フランスは動けず、日本はロシア一国と戦うことができた。日本の主な戦艦の多くはイギリスの造船所で造られたもので、旗艦の三笠もその一つだった。1904年10月、極東へ向かうロシアのバルチック艦隊が、北海のドッガー・バンクでイギリスの漁船を日本の水雷艇と見誤って砲撃し、英露は一時、戦争の寸前まで行った。イギリスはその後も、自国の港での石炭の補給などで、艦隊の長い航海を苦しめた。戦費を集めるため、日本銀行副総裁の高橋是清はロンドンとニューヨークで外債を売り、アメリカの銀行家ジェイコブ・シフらがそれを引き受けた。日本は戦費の多くを、こうして集めた外国の金でまかなった。

1905年、同盟は改められ、適用の範囲がインドまで広げられた。一国を相手にする戦争でも、互いに助けて戦うことになった。イギリスは、日本が韓国を保護の下に置くことを認め、それは5年後の韓国併合への道を開いた。1911年の3度目の改定では、アメリカとの戦争には適用しないことが加えられた。1914年、第一次世界大戦が始まると、日本は同盟を理由にドイツに宣戦し、中国の青島と太平洋のドイツ領の島々を取った。
戦争のあと、太平洋で日本と張り合うようになったアメリカは、日英の同盟を快く思わなかった。1921年のワシントン会議で、日英米仏の四か国条約が結ばれ、日英同盟は1923年に効力を失った(ワシントン海軍軍縮条約)。20年あまり続いた同盟の終わりを、日本の中には、イギリスに見捨てられたと受け取る人もいた。日本が後ろ盾を失って孤立を深め、やがてドイツと組む道へ進んだことを、この同盟の終わりから語る見方もある。