できごと

地租改正

Land Tax Reform
1873年
重要度 4
1873年

概要

収穫高ではなく地価の3%を現金で納める形にした。国家の収入が安定し、農民の負担は重くなる。

本文

明治のはじめ、新政府の財布は江戸時代のままだった。廃藩置県で藩がなくなり、政府は旧藩の借金と、武士たちへの家禄の支払いを引き受けた。ところが収入の柱は、旧藩ごとに率も取り方もばらばらな年貢である。米で納められ、豊作なら多く、不作なら少ない。米を売って現金にするまで、いくら入るかも分からない。

軍隊を作り、鉄道を敷き、役所を回すには、毎年決まった額の現金が要る。大蔵省の井上馨や大隈重信、租税頭の陸奥宗光らが中心になって、税の仕組みそのものを作り替える案が練られた。前提として、明治4年には田畑に何を植えてもよいとし、明治5年には江戸時代から続いていた田畑の永代売買の禁止を解いて、土地の持ち主に地券を出しはじめた。

1879年発行の地券の表面
1879年発行の地券の表面Wikimedia Commons Issued by Akita Prefecture. Photo by Mbdnoob. · Public domain

明治6年(1873年)7月、地租改正条例が出された。中身は三つに要約できる。課税の基準を収穫高から地価に変えること。税率を地価の3パーセントとすること。納める者を村ではなく土地の持ち主一人ひとりとし、米ではなく現金で納めさせること。これとは別に、村の費用として地租の3分の1以内を上乗せできた。

肝心の地価は、土地の収穫高と米の値段から割り出した。収穫を金額に直し、種や肥料の費用、税を差し引いた残りを、一定の利率で割り戻して土地の値打ちとする。この計算は、江戸時代の年貢と同じくらいの税収が確保できるように組まれていた。政府自身が、もとの歳入を減らさないことを方針として掲げている。

地券の裏面
地券の裏面Wikimedia Commons Issued by Akita Prefecture. Photo by Mbdnoob. · Public domain

作業は膨大だった。全国の田畑を一筆ごとに測り、持ち主を確かめ、収穫を見積もる。村ごとに丈量をやり直させ、政府が示す見込み額に届くまで地価を引き上げさせることもあった。明治8年には内務省と大蔵省が合同で地租改正事務局を設け、大久保利通が総裁に就いて推し進めた。田畑の改正がほぼ済んだのは明治9年から10年ごろ、山林原野まで含めて終わったのは明治14年ごろである。

負担は軽くならなかった。そのうえ、米の値段がどうであれ、納める額は同じである。明治9年に米価が下がると、農民は以前より多くの米を売らなければ税を払えなくなった。この年の暮れ、茨城の真壁、三重を中心とする伊勢で、大規模な一揆が起きる。伊勢暴動は愛知・岐阜・堺にまで広がり、5万人を超える処罰者を出した。

士族の不満も高まっていた時期である。政府は農民と士族が同時に立ち上がることを恐れ、明治10年1月、税率を2.5パーセントに引き下げた。「竹槍でドンと突き出す二分五厘」という句が流行ったと伝えられる。その翌月に始まったのが西南戦争だった。

地租改正が変えたのは、税の取り方だけではない。一つは、土地が誰のものかを国が確定したことである。地券に名の載った者が持ち主となり、土地は担保にも入れられ、売り買いできる財産になった。一方で、村が共同で使ってきた山や野原の多くは、持ち主を証明できないとして国の土地に編入され、薪や草を取っていた農民は締め出された。

もう一つは、地主と小作の関係を強めたことである。地主が国に納める地租は現金で一定額だったが、小作人が地主に納める小作料は、それまでどおり米で、しかも高い率のまま残った。米の値段が上がれば、地主の取り分だけが膨らむ。明治10年代の後半、大蔵卿松方正義の財政で米価が急落すると、税を払えずに土地を手放す農民が相次ぎ、秩父事件のような蜂起につながった。土地を集めた地主の力は、戦後の農地改革まで続くことになる。

地租は長く国の税収の中心であり続けた。のちに大日本帝国憲法の発布のもとで開かれた議会では、一定額以上の地租を納める者に選挙権が与えられた。地租を減らすかどうかは、議会を舞台にした政府と政党の最大の争点の一つになる。近代国家の財政は、こうして農民の土地の上に築かれた。

動画(1)

134 地租改正 日本史ストーリーノート第13話Historia Mundi ムンディ先生高校の日本史を200講で通す講義の第134講「地租改正」

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