一遍の遊行
概要
寺を持たず、16年歩き続けて念仏の札を配った。踊り念仏には身分も性別も関係なく人が集まる。その旅の絵巻が、中世の市や港や道の姿を今に伝えている。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
関わった人(1)
一遍AD1239年–AD1289年8月 · 遊行した本文
一遍は1239年、伊予国(いまの愛媛県)の武士、河野氏の家に生まれた。河野氏は源平の争乱で名を上げた水軍の一族だったが、承久の乱で朝廷の側について敗れ、祖父は奥州へ流されていた。10歳で母を亡くして出家し、九州の大宰府で浄土の教えを学んだ。父の死をきっかけに一度は故郷へ戻って家を継いだが、一族の争いに巻き込まれ、30代の初めに再び家を出た。信濃の善光寺に参り、伊予の山中にこもって念仏を重ねたのち、1274年、身の回りの物を捨てて旅に出る。博多に元の大軍が押し寄せた元寇と同じ年である。
旅立ちには、尼になった妻子とされる人びとも従っていた。一遍は大坂の四天王寺、高野山を経て熊野へ向かい、道で会う人に「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」と刷った小さな札を配った。その途中、熊野の山道で一人の僧に札を差し出すと、僧は、自分には信じる心が起きないので受け取れない、と断った。一遍は迷った末に、それでも受け取ってくれと札を押しつけた。この出来事に悩んだ一遍は熊野本宮にこもり、夢の中で熊野の神から告げを受けたと伝えられる。人びとの往生は、阿弥陀仏が悟りを開いたはるか昔にすでに決まっている。信じるか信じないか、心が清いか汚れているかを問わず、ただ札を配ればよい、と。

これが一遍の教えの芯になる。救いは受け取る側の心がけや修行によって得るものではなく、すでに与えられている。この後、一遍は連れてきた家族とも別れ、ひとりで、のちには「時衆」と呼ばれる弟子たちを連れて、日本の各地を歩いた。北は奥州の江刺から、南は九州の大隅まで足跡が残る。寺を建てず、財産を持たず、着る物と食べる物も施しに任せた。人びとは彼を「捨聖」と呼んだ。
1279年、信濃の佐久で、念仏を唱えるうちに人びとが感極まって踊り出した。これが踊り念仏の始まりとされる。鉦を打ち、床を踏み鳴らし、跳ねるように輪になって念仏を唱える。のちには踊るための舞台を組み、そこに武士も農民も商人も、遊女も、病のため人里を追われた人びとも、身分や男女の別なく集まった。京都の四条の釈迦堂では見物人が押し寄せて身動きがとれなかったと記録にある。一方で、僧の身で跳ね回る姿を下品だと笑い、裸で踊る者までいると非難する声もあった。1282年には鎌倉に入ろうとして、執権北条時宗の一行に出くわし、警護の武士に追い返されている。

一遍は1289年、旅の途中の兵庫(いまの神戸)の観音堂で病に倒れた。死の少し前、手元にあった経典の一部を寺に納め、残る書き物をすべて焼かせた。「一代の聖教みな尽きて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」と語ったと伝えられる。数えで51歳だった。生涯に札を配った人の数は、25万人を超えたと伝記は記す。
一遍の死から10年後の1299年、弟子で弟とも言われる聖戒が詞書を書き、絵師の円伊が絵を描いて、12巻の絵巻『一遍聖絵』が完成した。絹に描かれ、一遍の歩いた土地の風景を、山の形や寺の伽藍まで写実的に描き込んでいる。とりわけ貴重なのは、背景に描かれた名もない人びとの姿である。備前の福岡の市では、板葺きの小屋に布や米や魚や履物が並び、そこへ、妻を尼にされて怒った武士が一遍を斬りに来る。ほかにも、橋のたもとの乞食、関所、港の船、川で洗濯する女たち、犬に囲まれた病人の小屋が出てくる。文字の記録がほとんど残らない人びとの暮らしを、目で見て確かめられる数少ない史料になった。

歴史家の網野善彦は、この絵巻を何度も取り上げ、市や河原や道に生きた職人や芸能民や非人と呼ばれた人びとの世界を読み解いた(物語「『日本の歴史をよみなおす』で読む日本」)。一遍の教えは時宗という宗派として受け継がれ、その遊行の伝統は、神奈川県藤沢の清浄光寺(遊行寺)を本山にいまも続いている。法然や親鸞と並ぶ鎌倉の念仏の流れの中で、一遍は教えを建物や書物ではなく、歩くことそのものに託した人だった(物語「鎌倉文化 — 武士と民衆の仏教」)。