藤原基経
概要
良房の養子。応天門で伴善男を追い、陽成天皇を「乱行」で退けて光孝天皇を立てた。「関白」の最初。阿衡で宇多天皇を屈させた。娘の穏子を醍醐天皇の后に(朱雀・村上の母)。息子時平が道真を追った。人臣が天皇を選んだ最初の人。
関わったできごと(1)
阿衡の紛議AD888年(仁和4年) · 関白本文
836年に生まれた。父は藤原北家の長良で、その三男である。叔父の藤原良房には跡を継ぐ男子がいなかったので、基経は才能を見込まれて良房の養子になった。良房は842年の承和の変(承和の変)で皇太子を替えさせ、自分の娘の産んだ皇子を皇位につけた人である。858年、その孫がわずか9歳で清和天皇として即位すると、良房は幼い天皇に代わって政治を執り、のちに臣下として初めて正式に摂政となった(藤原良房の摂政)。基経は、天皇の外祖父として権力を握るという養父のやり方を、間近で見て育った。
866年、平安京の大内裏の正門、応天門が炎上した(応天門の変)。大納言の伴善男は、左大臣の源信が火をつけたと訴えたが、やがて逆に伴善男とその子が放火の犯人とされ、流罪になった。古くからの名門である伴氏と紀氏は、この事件で中央の政治から退けられた。真相はいまも分からない。基経は良房の意を受けてこの事件の処理に動き、事件のあと、上位の公卿を何人も飛び越えて中納言に昇った。

872年に良房が亡くなると、基経は右大臣として朝廷の中心に立った。876年、清和天皇は位を譲り、基経の妹の高子が産んだ9歳の陽成天皇が即位した。基経は摂政として政治を執った。天皇の伯父として、養父と同じ立場に立ったのである。
だが、陽成天皇と基経の関係はうまくいかなかった。成長した天皇は、宮中で馬を飼わせて乗り回し、乱暴なふるまいが多かったと伝えられる。883年には、宮中で天皇の乳母の子が殴り殺される事件が起き、天皇がかかわったと噂された。基経はしだいに出仕しなくなった。884年、陽成天皇は17歳で退位させられた。病のためとされたが、基経が退けたことは明らかだった。

後継ぎに基経が選んだのは、仁明天皇の皇子で、すでに55歳の時康親王だった。光孝天皇である。臣下が天皇を退かせ、次の天皇を自ら選んだのは、これが初めてだった。即位した光孝天皇は、基経に恩を感じ、政治のすべてをまず基経に諮ってから行うよう命じた。のちの関白と同じ役目である。光孝天皇は自分の子たちを臣下に下して源の姓を与え、皇位を自分の子孫に伝えるつもりのないことを示した。
887年、光孝天皇は重い病に倒れた。基経は、臣下に下っていた天皇の子の源定省を皇族に戻し、皇太子に立てた。光孝天皇はその日のうちに亡くなり、定省が宇多天皇として即位した。宇多天皇は基経に、すべての政務をまず太政大臣に「関り白し」、そのうえで奏上させよ、という詔を出した。関白という言葉はここから生まれた。
ところが、ここで事件が起きた。基経は慣例に従っていったん辞退し、天皇は改めて任命する文書を出した。その文書を起草した学者の橘広相は、中国の古典から言葉を借りて、阿衡の任をもってあなたの任とせよ、と書いた。すると別の学者が、阿衡というのは位が高いだけで実際の職務の無い官職だと指摘した。基経はこれを口実に、いっさいの政務に出ることをやめた。朝廷の政治は止まった。半年あまりのにらみ合いの末、888年、宇多天皇は自分の非を認める詔を出し、橘広相を罷免した。これを阿衡の紛議と呼ぶ。即位したばかりの天皇は、臣下の前に屈したのである。基経はその後、娘の温子を宇多天皇の女御に入れた。
891年、基経は56歳で亡くなった。死後、昭宣公とおくり名された。基経がいなくなると、宇多天皇は関白を置かず、自ら政治を執った。阿衡の紛議で悔しい思いをした天皇は、藤原氏をおさえるために、学者の菅原道真を重く用いた。だが、基経の長男の時平は、宇多天皇が譲位したあと、901年に道真を大宰府へ追いやった。基経の娘の穏子は醍醐天皇の中宮となり、朱雀天皇と村上天皇を産んだ。基経の四男の忠平は、この二人の天皇の摂政と関白を務め、その子孫から藤原道長が出た(摂関政治の頂点)。
基経は、養父の良房が開いた摂関政治の道を、天皇を替えることまでやってのけて固めた。天皇が幼ければ摂政、成人していれば関白として政治を執るという仕組みは、基経の時代にほぼできあがったと言える。関白の位はその後も長く続き、豊臣秀吉もこの位について天下を治めた。最後の関白が廃されたのは、1867年の王政復古のときである。
退位させられた陽成天皇は、その後65年も生き、949年に80歳を超えて亡くなった。上皇として過ごした歳月は歴代の天皇で最も長いとされる。その乱行の話の多くは、基経の側に立つ記録に残されたものであり、どこまで本当だったかは疑う見方もある。陽成院の作として『小倉百人一首』に採られた、筑波山の峰から落ちる川の水が積もって淵となるように、恋しい思いが積もって深い淵となった、という歌は、退位したあとの若い上皇が、ある皇女に贈ったものと伝えられる。