白村江の戦い
概要
倭が百済を助けて唐・新羅に大敗した。以後、日本は防衛を固めつつ唐の制度を学ぶ側に回る。
場所
36.00°N 126.70°E · 大韓民国・錦江河口付近(位置に諸説ある)
本文
7世紀の朝鮮半島には、高句麗、百済、新羅の三つの国が並び立ち、互いに争っていた。中国では唐の成立を経て唐が強大になり、高句麗への遠征を繰り返していた。新羅は唐と手を結び、背後から百済と高句麗を挟む道を選んだ。倭は長く百済と親しく、仏教や学問、技術を百済から受け入れてきた。百済の王子の扶余豊璋も、人質として倭に滞在していた。
660年、唐は13万の大軍を海から送り、新羅と挟み撃ちにして百済の都を落とした(百済の滅亡)。義慈王は降伏し、唐に連れ去られた。だが百済の遺臣たちはなお各地に拠って抵抗を続け、その中心となった鬼室福信は、倭に使者を送って援軍を求め、豊璋を王として返してほしいと願った。
倭の朝廷はこれに応えた。女帝の斉明天皇は自ら九州へ下り、筑紫の朝倉宮に入ったが、661年にそこで没した。皇太子の天智天皇(中大兄皇子)、のちの天智天皇は即位しないまま政務を執り、救援を続けた。662年、豊璋は兵とともに百済へ送り返されて王として迎えられ、翌663年には2万7000人とされる大軍が海を渡った。倭がこれほど大規模な軍勢を海外に送ったのは初めてだった。
だが百済の復興軍の中では、内紛が起きていた。豊璋は、自分をしのぐ力を持つ福信を謀反の疑いで殺してしまう。名将を失った復興軍の拠点、周留城には、唐と新羅の軍が迫った。唐は水軍を率いる劉仁軌に170隻の軍船を与え、錦江の河口、白村江に陣を構えさせた。倭の船団はここで唐の水軍とぶつかる。
663年8月の末、2日間の戦いになった。『日本書紀』によれば、倭の将たちは、我らが先を争って攻めかかれば敵は自ずから退くだろう、と言い、隊列を整えないまま唐の堅陣に突入した。唐の船は左右から倭の船を挟んで攻め、倭の兵は多くが水に落ちて溺れた。船の向きを変えることもできなかったという。中国の『旧唐書』は、四度戦って四度勝ち、倭の船400隻を焼いた、煙と炎は天に満ち、海の水はみな赤くなった、と記している。
豊璋は高句麗へ逃れ、周留城も落ちた。倭の軍は、百済の遺臣や民を乗せて引き揚げた。この時、多くの百済の人々が倭に渡ってきた。その中には、貴族や学者、技術者たちが含まれていた。
負けた倭が恐れたのは、唐と新羅がそのまま海を渡って攻めてくることだった。664年、対馬、壱岐、筑紫に防人を置き、のろしの台を設けた。九州の政治の拠点だった大宰府の前面には、長さ1キロ余りの土塁と堀からなる水城を築いた。翌年には亡命してきた百済の貴族の指導で、大宰府の北と南に大野城と基肄城という朝鮮式の山城を築き、その後も対馬から瀬戸内、畿内にかけて、山城を次々に造った。
667年、中大兄皇子は都を飛鳥から近江の大津へ移した(近江大津宮への遷都)。海から遠い内陸に都を置いたのは、唐の来襲への備えだったとみる説が有力である。翌668年に即位して天智天皇となり、670年には全国にわたる初めての戸籍、庚午年籍を作った。兵を集め、税を取るためには、民を一人ずつ把握しなければならない。
同じ668年、唐と新羅は高句麗も滅ぼした(高句麗の滅亡)。ところが、その後に唐と新羅が半島の支配をめぐって争いはじめる。新羅は唐の軍を半島から追い出し、676年に半島の大部分を統一した(新羅の朝鮮半島統一)。唐と新羅が互いに対立したことで、倭への攻撃という最悪の事態は起きなかった。倭は新羅とも唐とも、やがて使者を往来させるようになる。
白村江の敗戦は、倭の国の形を変えるきっかけになった。天智天皇の死後に起きた壬申の乱を経て、天武天皇と持統天皇は、唐の律令をお手本に、天皇を中心とする中央集権の国家づくりを進めた。戸籍と税の制度、役所の組織、碁盤の目の都。国号を「日本」とし、君主を「天皇」と呼ぶようになったのも、7世紀の後半から8世紀のはじめにかけてのこととされる。敗れた相手の仕組みを急いで学び、取り入れることで、倭は日本になっていった。