平城京遷都
概要
長安を手本にした碁盤の目の都。律令国家の形が整う。
場所
34.69°N 135.79°E · 日本・奈良県
本文
710年、元明天皇は都を藤原京から北へ移した。藤原京は日本で初めての本格的な都城だったが、16年で捨てられたことになる。宮が都の中央にあって中国の都城の形と違っていたこと、土地が低く水はけが悪かったことが理由に挙げられる。遷都を主導したのは、大宝律令の編纂にも関わった藤原不比等だったとされる。
新しい都は、唐の都・長安を手本にした。北の端に天皇の住まいと役所が集まる平城宮を置き、そこから南へ幅70メートルほどの朱雀大路をまっすぐ通した。大路の両側は碁盤の目に区切られ、東側にはさらに外京が張り出す。南北4.8キロ、東西4.3キロほどで、規模は長安の4分の1ほどになる。

ただし城壁が無い。中国の都城は外敵を防ぐ高い壁で町全体を囲むのが基本だが、平城京は南の正門である羅城門のまわりに形ばかりの塀を築いただけだった。海に隔てられて、都を攻める外敵を想定しなくてよかったためとされる。
人口は10万人前後と推計されることが多いが、5万人ほどとする説もあり、幅がある。役人とその家族、寺の僧、それを支える職人と商人が集まった。東西に官営の市が開かれ、708年に造られた和同開珎が使われた。銭を広めるため、蓄えた銭の額に応じて位を与える法まで出している。

出土した木簡から、都に何が届いていたかが分かる。若狭の塩、隠岐の海藻、駿河の堅魚。荷札には国名・郡名・品名・量が書かれ、全国から現物の税が集まる仕組みが実際に動いていたことを示す。1980年代末には長屋王の邸宅跡から3万点を超える木簡が見つかり、皇族の家の暮らしが細かく分かるようになった。
役人たちの暮らしも、文書から見えてくる。正倉院に伝わる写経所の帳簿には、経を写す下級の役人が給料の前借りを願い出た書類や、病気で休みたいと申し出た書類が残っている。役人は夜明けとともに宮の門をくぐり、昼前には仕事を終えるのが決まりだった。律令の国家は、こうした無数の小さな勤めで動いていた。

この都で、国の形を言葉にする仕事が続いた。712年に『古事記』が、720年に『日本書紀』が成る(『古事記』の完成、『日本書紀』の完成)。一方で権力争いも激しく、729年の長屋王の変、737年に藤原氏の四兄弟を次々と倒した天平の疫病が続いた。
聖武天皇は不安の中で740年から都を転々と移し、恭仁京、難波京、紫香楽宮を経て、745年に平城京へ戻った。仏の力で国を守ろうとして国分寺建立の詔を出し、東大寺の大仏を造らせた。752年の大仏開眼には、遠くインド出身の僧も招かれている。

都の華やぎは、『万葉集』(『万葉集』の成立)に残る。大宰府にいた官人の小野老は、遠く離れた都を思い「あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり」と詠んだ。753年には、何度も渡航に失敗して視力を失ったとされる鑑真が都に着き(鑑真の来日)、唐招提寺を開いた。聖武天皇の遺愛の品を納めた正倉院の宝物には、ペルシアやインドに由来する品も含まれ、平城京が唐を通して西方とつながっていたことを示している。
784年、桓武天皇は長岡京へ都を移し、さらに794年、平安京へ移った(平安京遷都)。奈良の大寺院の勢力から離れるため、天武天皇の系統から天智天皇の系統へ皇統が移ったことを示すため、水運の便のため、など理由には諸説がある。都の跡は田畑になったことで地下によく残り、いまは発掘と復元が進んで、朱雀門と大極殿が往時の姿で建っている。

平城宮の跡が残ったのは、偶然だけではない。1960年代、宮跡の一部に鉄道の車庫を造る計画が持ち上がると、保存を求める声が全国から上がり、国が土地を買い上げた。発掘はいまも続いており、出土した木簡は数十万点に及ぶとされる。1998年には「古都奈良の文化財」の一つとして世界遺産に登録された。