できごと

仏教の日本伝来

Buddhism reaches Japan
AD538年(552年説もある)
年に諸説あり重要度 4
古シベリアの狩猟採集民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民柔然Jin Empire北魏(拓跋魏)扶南高句麗クリカンアイヌラヴォ日本チャンパ新羅AD538年(552年説もある)飛鳥
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概要

百済から仏像と経典が伝わった。受け入れるかどうかで豪族が割れ、国の形をめぐる争いになる。

場所

飛鳥
34.47°N 135.82°E · 日本・奈良県

関わった人(2)

欽明天皇?–AD571年 · 天皇蘇我稲目?–AD570年 · 受けた

本文

6世紀の朝鮮半島は、高句麗、百済、新羅の三国が激しく争う時代だった。475年に都の漢城を高句麗に落とされた百済は(百済の漢城陥落)、南へ都を移して国を立て直し、新羅や高句麗に対抗するために、海の向こうの倭国(日本)の助けを求めていた。軍勢や馬を送ってもらう見返りに、百済は学者や技術者、そして大陸の新しい知識を倭国へ送った。仏教の伝来も、こうした外交の流れの中で起きた。

日本書紀によれば、欽明天皇の時代、百済の聖明王が使いを送り、金銅の釈迦仏の像一体と、幡や天蓋、経典や論書を献上した。添えられた文には、この教えはあらゆる教えの中で最も優れ、遠くインドから朝鮮半島まで、人びとはみなこれを敬っている、と書かれていたという。日本書紀はこれを552年のこととするが、聖徳太子の伝記や元興寺の縁起は戊午の年、つまり538年としており、こちらを採る研究者が多い。どちらの年も確かめる決め手はなく、決着していない。また、それより前から、大陸から渡ってきた人びとのあいだでは、仏像を祀ることがひそかに行われていたとみられる。いわゆる「公伝」は、国と国とのあいだで正式に伝えられた最初の機会、という意味である。

鎌倉高徳院の大仏
鎌倉高徳院の大仏Wikimedia Commons Jean-Pierre Dalbéra from Paris, France · CC BY 2.0

輝く仏像を見た天皇は、これほど美しい顔の仏は見たことがない、と喜んだという。しかし、祀るべきかどうかは自分では決めず、臣下たちに問うた。大臣の蘇我稲目は、西の国々はみなこれを敬っている、日本だけが背を向けるわけにはいかない、と受け入れを勧めた。これに対し、軍事を担う物部尾輿と、祭祀を担う中臣鎌子は、わが国の王は天地の神々を祀ってきた、いま外国の神を拝めば国の神々の怒りを招く、と反対した。ここで争われたのは、仏の教えの中身ではなかった。仏はあくまで、外から来た新しい「神」として受け止められていた。

天皇は、試しに稲目に仏像を預けて祀らせた。稲目は自分の家を寺とした。ところがその後、疫病がはやり、多くの人が死んだ。物部尾輿らは、それ見たことか、外国の神を拝んだ報いだと訴え、仏像を難波の堀江に投げ捨て、寺に火を放った。同じような騒ぎは、次の代の蘇我馬子と物部守屋のあいだでも繰り返された。疫病がはやるたびに仏像が捨てられ、尼僧が捕らえられ、それでも疫病がおさまらないと、今度は仏を祀らないからだとされて、また許される。仏教をめぐる争いは、朝廷の主導権をめぐる二つの有力な氏族の争いと重なっていた。

決着は武力でついた。587年、蘇我馬子は、若い厩戸皇子(のちの聖徳太子)らとともに兵を挙げ、物部守屋を攻め滅ぼした(蘇我氏と物部氏の戦い)。勝った馬子は、翌年から飛鳥の地に日本で最初の本格的な寺院、飛鳥寺の建立を始めた。百済から僧とともに、寺を建てる大工、瓦を焼く職人、仏画を描く絵師が招かれた。礎石の上に柱を立て、屋根に瓦を葺く建物は、それまで日本には無かった。

蘇我氏と物部氏の戦いに関わる図版:Shotoku killing Moriya no Omuraji
蘇我氏と物部氏の戦いWikimedia Commons Tsukioka Yoshitoshi · Public domain

594年、推古天皇は仏教を盛んにするよう命じ、豪族たちは競って氏寺を建てるようになった。寺を建てることは、信仰の表れであると同時に、氏族の財力と大陸の文化への近さを示す手段でもあった。604年の憲法十七条は、第二条で「篤く三宝を敬え」と説いている。三宝とは、仏と、その教えと、僧のことである。

仏教とともに入ってきたのは、信仰だけではなかった。経典を読むための漢字と漢文、寺院を建てる建築と瓦の技術、仏像を鋳造し彫刻する技術、暦や医薬の知識。仏教を受け入れることは、それに付いてくる大陸の文明を丸ごと受け入れることでもあった。やがて国家は寺を建てて国の平安を祈らせ、仏教は国を守る力として位置づけられていく。

国宝・東大寺の大仏
国宝・東大寺の大仏Wikimedia Commons Douglas P. Perkins · CC BY 3.0

外から来た神をどう扱うかをめぐって始まった争いは、日本が国の形を大陸にならって作り変えていく長い道の入口になった。一方で、古くからの神々への信仰も消えることなく、のちには仏と神を重ね合わせて祀る形が生まれる。外のものを受け入れながら、元からあるものも捨てない。日本の宗教のその後の姿は、この最初の出会いから始まっている。

動画(1)

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