平安京遷都
概要
この都が1000年以上続く。やがて遣唐使も止まり、独自の文化が育つ。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
関わった人(1)
桓武天皇AD737年–AD806年 · 天皇本文
8世紀の都は、奈良の平城京遷都だった。唐の長安にならって碁盤の目のように道を引いた都で、東大寺をはじめとする大寺院が立ち並び、仏教は国を護る力として手厚く保護された。だが世紀の後半になると、僧侶が政治に深く入り込み、道鏡のように天皇の位をうかがう者まで現れた。皇統も、天武天皇の系統が途絶え、天智天皇の系統の光仁天皇に移っていた。
781年に即位した桓武天皇は、光仁天皇の子で、母は百済からの渡来の家系の出だった。新しい系統の天皇として、古い都のしがらみを断ち切ることを望んだとされる。784年、桓武天皇は都を山背国の長岡へ移した。淀川の水運に通じる地で、奈良の大寺院は移ることを許されなかった。

ところが長岡京は、造営が始まってわずか1年後に暗礁に乗り上げる。785年、造営の責任者で天皇の信頼の厚かった藤原種継が、工事の現場を見回っている最中に矢で射られて殺された。事件に関わったとして、皇太子で天皇の弟の早良親王が捕らえられ、淡路へ流される途中、無実を訴えて食を断って死んだ。その後、天皇の母や皇后が相次いで亡くなり、新しく皇太子となった安殿親王は病に伏し、都は洪水に見舞われ、疫病も流行った。占わせると、早良親王の祟りだと出た。
793年、桓武天皇は、再び都を移すことを決めた。和気清麻呂の進言によるとされる。選ばれたのは、長岡のすぐ北東、山背国葛野・愛宕の地である。三方を山に囲まれ、東に鴨川、西に桂川が流れる盆地で、この地を開いた渡来系の秦氏の力添えがあったと考えられている。794年10月、天皇は新しい都に移り、翌月の詔で、この都を平安京と名づけ、山背国を山城国と改めた。平らかで安らかな都、という願いが込められていた。早良親王にはのちに崇道天皇の名が贈られ、その霊を鎮める祭りが重ねられた。

都は南北およそ5.2キロ、東西およそ4.5キロの長方形で、中央を幅80メートルを超える朱雀大路が南北に貫き、南の正門が羅城門、北の奥に天皇の住まいと役所のある大内裏が置かれた。大路と小路が碁盤の目に交わり、その区画の呼び方は、いまの京都の住所にも名残をとどめている。新しい都に建てることを許された官の寺は、羅城門の東西の東寺と西寺の二つだけだった。仏教の勢力と距離を置こうという考えの表れとされる。
桓武天皇の治世は、都づくりと、東北の蝦夷との戦いという二つの大事業に費やされた。坂上田村麻呂が征夷大将軍として送られ、802年には蝦夷の指導者アテルイが降伏している。だが二つの事業は民に重い負担をかけた。805年、天皇の前で若い参議の藤原緒嗣が、天下の民を苦しめているのは軍事と造作だと述べ、天皇はこれを容れて、どちらも打ち切った。都の造営は完成を見ないまま終わった。翌年、桓武天皇は亡くなった。

都はその後、思い描かれたとおりには育たなかった。西半分の右京は低い湿地が多く、10世紀の終わりには、人が去って荒れ果てたと記されている。町は東の左京へ、さらに鴨川を越えて東へと広がっていった。それでもこの都は、平清盛による福原遷都のような一時の中断はあったものの、明治の初めに天皇が東京へ移るまで、1000年あまりにわたって天皇の住む都であり続けた。
平安京の時代、日本は唐から学ぶ姿勢をしだいに改めていった。804年の最澄と空海の入唐では、最澄と空海が新しい仏教を持ち帰り、比叡山と高野山を開いた。遣唐使は838年に出発したものを最後に送られなくなり、894年には次の遣唐大使に任じられた菅原道真が、唐の衰えと航海の危険を理由に派遣の見直しを求めた。遣唐使の中止である。

漢字を崩して作られた仮名が広く使われるようになると、日本の言葉をそのまま書き表せるようになった。935年ごろの紀貫之『土佐日記』とかな文字、宮廷の女性たちが書いた『枕草子』や『源氏物語』は、この都の宮廷の暮らしから生まれた。外から学んだものを、自分たちの言葉で作り直す時代が、平安京で始まったのである。