光明皇后
概要
藤原不比等の娘で、皇族以外から最初の皇后になった。施薬院と悲田院を置き、千人の垢を自分で洗ったという伝説がある。夫の遺品を東大寺に納め、それが正倉院になる。
所属
日本本文
701年、藤原不比等と県犬養(橘)三千代の娘として生まれた。名は安宿媛(あすかべひめ)、のちに光明子と呼ばれる。同じ701年には、のちの聖武天皇となる首皇子も生まれている。首皇子の母・宮子も不比等の娘だったから、二人は叔母の子と甥の関係にあたった。

716年、16歳の安宿媛は、皇太子の首皇子の妃になった。718年に娘の阿倍内親王(のちの孝謙天皇(称徳天皇))を産み、727年には待望の男子・基王を産んだ。基王は生まれてひと月ほどで皇太子に立てられたが、翌年、1歳にならずに死んだ。
基王の死は、宮廷の力の均衡を揺るがした。聖武には別の妃・県犬養広刀自との間に安積親王が生まれており、藤原氏の血を引かない皇子が皇位を継ぐ道が開けかけた。藤原氏は、光明子を皇后に立てようとした。だが当時、皇后は皇族の女性に限られるという考えが強く、皇后は天皇が亡くなったときに位を継ぐこともありうる地位だった。729年、皇族の重鎮で政権の中心にいた長屋王が、謀反の疑いをかけられて自害に追い込まれた(長屋王の変)。その半年後、光明子は皇后に立てられた。皇族でない女性が皇后になった最初の例である。朝廷は、仁徳天皇の皇后・磐之媛も臣下の出だった、と古い例を引いて正当化した。この後、藤原氏の娘が皇后となる道が開かれ、平安時代の摂関政治へとつながっていく。

皇后のための役所・皇后宮職は、光明皇后の仕事の拠点になった。730年、皇后宮職に施薬院を置いて、病人に薬を与えて治療させ、悲田院を置いて、身寄りのない貧しい人や孤児を養った。両親の冥福を祈るため、皇后宮職の写経所で仏教の経典をすべて書き写させる大事業も始めた。740年5月1日の日付の願文を持つことから「五月一日経」と呼ばれるこの写経は、16年をかけて約7000巻に及んだとされ、今も正倉院や各地の寺に多くが残る。
光明皇后には、のちの時代にこんな伝説が生まれた。皇后は浴室を建て、千人の垢を自ら洗い流すと誓った。最後の千人目に現れたのは、全身に膿を持つ病人で、膿を口で吸い出してほしいと願った。皇后がためらわずにそれに応えると、病人は光を放つ阿閦如来の姿に変わったという。この話は鎌倉時代の書物に見えるもので、史実ではない。奈良の法華寺には、この伝説にちなむ蒸し風呂の浴室「から風呂」が残っている。

聖武天皇の時代は、災いが続いた。737年には天然痘の大流行で、権力を握っていた藤原四兄弟、つまり光明皇后の兄たちが相次いで死んだ。740年には九州で藤原広嗣が反乱を起こし、聖武は数年にわたって都を転々と移した。そうした中で、聖武は仏教の力で国を守ろうとし、741年に全国に国分寺と国分尼寺を建てる詔を出し(国分寺建立の詔)、743年には大仏を造る詔を出した。『続日本紀』は、光明皇后の死を伝える記事の中で、東大寺と全国の国分寺を建てたのは、もとは皇后が勧めたことだった、と書いている。
皇后は、父不比等の邸宅の跡を寺に改めた。これが法華寺で、全国の国分尼寺の中心となる総国分尼寺とされた。752年の大仏開眼には、聖武太上天皇や孝謙天皇とともに臨んでいる。娘の孝謙天皇が即位すると、光明皇太后のために紫微中台という役所が置かれ、甥の藤原仲麻呂がその長官として実権を振るった。
756年5月、聖武太上天皇が死んだ。その四十九日にあたる6月21日、光明皇太后は、夫が愛用した品々を東大寺の盧舎那仏に捧げた。その目録『国家珍宝帳』の願文で、皇太后は、遺された品を見るたびに亡き人を思い出して心が砕ける、と悲しみを記し、これらを仏に捧げて冥福を祈ると述べている。納められたのは、螺鈿の装飾をほどこした五絃の琵琶、刀剣、鏡、屏風、書など600点を超える品々で、同じ日に60種の薬も納められた。その後も皇太后は何度か宝物を献納している。これらは東大寺の倉、正倉院に収められた(正倉院の楽器)。
光明皇后自身の筆跡も、正倉院に伝わっている。744年、中国の書聖・王羲之の書を写した『楽毅論』で、末尾に「藤三娘」と署名がある。藤原家の三女という意味である。手本を写したものでありながら、筆の運びは力強く、男性の書と見まがうほどだと評される。
760年6月、光明皇太后は60歳で死んだ。佐保山に葬られた。皇太后の死によって、仲麻呂の後ろ盾は失われ、宮廷は娘の孝謙上皇と仲麻呂の対立へと向かっていく(藤原仲麻呂の乱)。

正倉院の宝物は、天皇の許しが無ければ倉を開けられない「勅封」によって守られ、1200年以上にわたって伝えられてきた。中には、唐やペルシア、遠くローマ世界の技術を伝える品々も含まれ、シルクロードの東の終着点と呼ばれる。いまは宮内庁が管理し、毎年秋の正倉院展で一部が公開されている。夫を失った一人の女性の悲しみが、8世紀の世界の工芸をいまに残すことになった。