人物

行基

Gyōki
AD668年 – AD749年(享年81・推定)
日本重要度 3

概要

河内の渡来系の家に生まれ、僧の外出を禁じる法を破って民に説き、橋と池と布施屋を作った。朝廷は「小僧行基」と咎め、それから大仏の勧進に使った。日本で最初の大僧正。民は菩薩と呼んだ。

所属

日本

関わったできごと(1)

大仏開眼AD752年 · 民衆を率いて協力

本文

668年、河内国大鳥郡(のちの和泉国、いまの大阪府堺市)に生まれた。父は高志才智といい、百済から渡ってきた王仁の子孫を称する一族の出だった。母は蜂田氏の娘である。生まれた家は、のちに家原寺という寺になった。

行基の銅像
行基の銅像Wikimedia Commons ja:user:田英 · Public domain

15歳で出家し、のちに法相の教えを学んだ。師の一人とされるのが道昭である。道昭は唐に渡って玄奘に直接学び、日本に法相宗を伝えた僧で、帰国後は各地を巡って井戸を掘り、渡し場に舟を置き、橋を架けた。行基が本当に道昭に学んだかは確かめられないが、民の暮らしの中で仏の教えを実践する姿は、行基に受け継がれていく。

行基は山林で修行を重ねたのち、30代の後半から、畿内の村々を巡って人びとに仏の教えを説き始めた。だが、これは国の法に背く行いだった。当時の僧尼令は、僧が寺の外で人を集めて教えを説くこと、勝手に人を出家させることを禁じていた。僧は国家のために祈る者であり、民の中に入ることは許されなかったのである。

銅製行基舎利瓶残片(重要美術品、奈良国立博物館所蔵)
銅製行基舎利瓶残片(重要美術品、奈良国立博物館所蔵)Wikimedia Commons 国立文化財機構 · CC BY 4.0

717年、朝廷は詔を出して行基を名指しで咎めた。『続日本紀』によれば、「小僧行基と弟子たちが、ちまたに群れ集まって、みだりに罪と福を説き、徒党を組んで、指を焼き肘の皮をはいで経を写し、家々を回って偽りの説法をし、食べ物以外のものまで強いて求めている」と、禁止を命じている。この頃の平城京は、平城京遷都の造営に駆り出された人びとや、都に税を運ぶ途中で食べ物が尽きて倒れる人びとであふれていた。行基の周りに集まったのは、そうした人びとであり、また土木の技術を持つ渡来系の人びとや、正式に出家していない在家の信者たちだった。

行基の活動の中心は、説法と同時に、橋や池や道を造ることにあった。行基とその集団は、摂津や河内、和泉に、ため池を掘り、用水路を開き、川に橋を架け、港を整えた。狭山池の改修、昆陽池、久米田池などが、行基の造った、あるいは改修したものと伝えられる。都へ向かう旅人のために布施屋と呼ばれる無料の宿泊所を建て、人びとが集まる道場として「院」を各地に建てた。その数は49に及ぶとされ、「行基四十九院」と呼ばれる。堺に残る土の塔「土塔」は、行基が建てた大野寺の塔で、瓦に関わった人びとの名が刻まれている。

行基の像(神戸)
行基の像(神戸)Wikimedia Commons 日: Jnn · CC BY 2.1 jp

723年に三世一身法が出され、新しく池や溝を造って開いた田は三代まで持てるようになると、行基の土木事業はますます人びとの暮らしに欠かせないものになった。朝廷も、取り締まるより使うほうが得だと考えるようになる。731年、朝廷は行基に従う在家の信者のうち、男は61歳以上、女は55歳以上の者に出家を認めた。行基とその集団は、事実上公認されたのである。

その頃、聖武天皇は、疫病と飢饉と反乱に揺れる国を、仏の力で鎮めようとしていた。741年に国分寺建立の詔を出し、743年には近江の紫香楽で、盧舎那仏の大仏を造る詔を出した。同じ年に墾田永年私財法が出されている。そして大仏造りの呼びかけに、行基は弟子たちを率いて応じ、各地を回って人びとから財と労力を集める勧進に立った。大仏の造立には、一人の天皇の力だけでなく、一本の草、ひとつかみの土を持ち寄る多くの人びとの心が要る、と詔は述べていた。その「多くの人びと」を動かせる者は、行基のほかにいなかった。

745年、行基は大僧正に任じられた。日本で最初の大僧正である。かつて「小僧」と咎められた僧が、僧の最高位に就いたのだった。人びとは彼を「行基菩薩」と呼んだ。

749年2月、行基は平城京の菅原寺(いまの喜光寺)で死んだ。82歳だった。生駒山の麓の竹林寺で火葬され、そこに葬られた。大仏開眼が行われたのは、その3年後の752年である。行基は東大寺を建てた「四聖」の一人として、聖武天皇、開山の良弁、開眼の導師の菩提僊那とともに祀られている。

1235年、竹林寺の墓が掘り返され、行基の骨を納めた舎利瓶と、その生涯を記した墓誌が見つかった。墓誌の断片は今も残り、行基の生涯を知る大事な史料になっている。

行基の名は、伝説の中でさらに大きくなった。全国の多くの寺が行基の開いた寺だと伝え、温泉の発見も行基に結びつけられた。中世から江戸時代にかけて広まった日本地図は「行基図」と呼ばれ、行基が作ったとされたが、実際には後世のもので、行基との関わりは無い。それでも、畿内の村々を歩き、橋を架け池を掘った僧の名が地図に冠せられたことには、人びとの記憶の中の行基の姿がよく表れている。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD668年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →