聖武天皇
概要
疫病と反乱と飢饉の中で都を三度動かし、国ごとに国分寺を建てさせ、大仏を発願した。「朕は三宝の奴」と言った。出家した最初の天皇。遺品が正倉院に残った。
所属
日本関わったできごと(1)
大仏開眼AD752年 · 発願本文
701年に生まれた。名は首皇子。父は文武天皇、母は藤原不比等の娘の宮子である。この年、日本で初めての本格的な法典、大宝律令ができている(大宝律令)。天皇家と藤原氏の血を引く最初の皇子として、生まれたときから期待を背負っていた。だが7歳のとき、父の文武天皇が25歳で亡くなった。母の宮子は皇子を産んだあと心の病にかかり、長く息子に会うこともできなかったと伝えられる。皇子が成長するまでの間、祖母の元明天皇、伯母の元正天皇が位を継いでつないだ。都が奈良の平城京に移されたのも、この間のことである(平城京遷都)。

724年、24歳で即位した。妻は不比等のもう一人の娘、光明子で、母宮子の異母妹にあたる。藤原氏は娘たちを通じて天皇家と二重に結びついていた。727年、光明子との間に男子が生まれた。聖武は喜び、生後わずか1か月あまりでこの子を皇太子にした。だが皇子は翌年、1歳の誕生日を迎える前に亡くなった。
729年、左大臣の長屋王が、国家を傾けようと呪いをかけていると密告された。長屋王は天武天皇の孫で、皇族の筆頭として政治を率いていた。兵に邸宅を囲まれ、妻子とともに自害した(長屋王の変)。その半年後、光明子は皇后に立てられた。皇族以外の女性が皇后になるのは初めてで、それを阻む立場にあった長屋王を除くための、不比等の4人の息子たちによる陰謀だったと考えられている。のちに密告は偽りだったと記録された。
藤原四兄弟の天下は長く続かなかった。735年、九州から天然痘が広がり、737年には都にも及んで、四兄弟が全員相次いで亡くなった。公卿の多くが倒れ、全国で人口の3割前後が死んだとする推計もある。皇族出身の橘諸兄が政治の中心に立ち、唐から帰った僧の玄昉と学者の吉備真備が重く用いられた。740年、これに不満を抱いた藤原広嗣が九州で兵を挙げた。
反乱のさなか、聖武は突然、都を出て東国へ旅立った。伊賀、伊勢、美濃、近江をめぐり、年の暮れには山背の恭仁に新しい都を造ると宣言した。乱は2か月ほどで鎮められたが、聖武は平城京に戻らなかった。その後、近江の紫香楽に離宮を造り、744年には難波を都と定め、745年にようやく平城京に戻った。5年の間、都は定まらなかった。この彷徨の理由ははっきりしない。疫病と反乱への恐れ、橘諸兄らの思惑、仏教の理想の都を求めた聖武自身の思い、さまざまな説がある。

災いが続く中で、聖武が頼ったのは仏の力だった。741年、全国の国ごとに国分寺と国分尼寺を建て、国の平安を祈らせる詔を出した(国分寺建立の詔)。743年には、金銅の巨大な盧舎那仏を造る詔を出した。天下の富を持つのも、天下の勢いを持つのも私である、この富と勢いで尊い像を造るのは容易だが、それでは心がこもらない、一本の草、一握りの土を持って像造りを助けようと願う者があれば、それを許せ、という内容だった。国家の力だけでなく、民衆の参加で仏を造ろうとしたのである。そのために、民衆の間で布教し、それまで朝廷から弾圧されていた僧の行基を起用し、のちに大僧正に任じた。
大仏は紫香楽で造り始められ、都が平城京に戻ると、いまの東大寺の地で改めて造られた。巨大な像を金で覆うには大量の金が要ったが、当時の日本では金は採れないと考えられていた。749年、陸奥国から金が見つかったという知らせが届いた。聖武は大喜びで東大寺に出向き、大仏の前で自らを「三宝の奴」、仏と教えと僧に仕える者だと称した。天皇が仏に向かって臣下として仕えると宣言したのである。同じ年、聖武は娘の阿倍内親王に位を譲った。孝謙天皇(称徳天皇)である。聖武は出家して勝満と名乗った。生前に出家した天皇は聖武が初めてだったとされる。

752年4月、大仏の開眼供養が盛大に行われた(大仏開眼)。インドから来た僧の菩提僊那が筆を執って大仏に目を入れた。その筆には長い紐が結ばれ、太上天皇となった聖武、光明皇太后、孝謙天皇、そして参列した人々がその紐を握って、仏と縁を結んだ。そのとき使われた紐は、今も正倉院に残っている。754年には、何度も渡航に失敗しながら唐から来日した鑑真から、聖武は光明皇太后、孝謙天皇とともに戒を受けた(鑑真の来日)。
756年5月、聖武は亡くなった。56歳だった。四十九日にあたる日、光明皇后は、夫が愛用した品々を東大寺の大仏に献げた。献納の目録である『国家珍宝帳』には600点を超える品が記され、その最後には、これらを見れば在りし日を思い出して心が砕ける、という光明皇太后の嘆きの言葉が添えられている。品々を収めた倉が、正倉院である(正倉院の楽器)。ペルシアのガラスの器、唐の楽器、聖武自筆の書などが、1200年以上を経た今も伝えられている。

聖武の時代は、疫病と反乱と飢饉の時代だった。国分寺と大仏は、人々にさらに重い負担を強いたとも言える。それでも、天皇が自ら仏に仕えると宣言し、国を挙げて仏を造ったこの時代は、天平文化と呼ばれる華やかな文化を残した。聖武の血を引く皇位は娘の称徳天皇で途絶え、皇位は天智天皇の系統へ移っていく。