蘇我稲目
概要
蘇我氏の大臣。渡来人を使い、屯倉を管理し、二人の娘を欽明天皇に入れた。仏像を自分の家に置いて祭った。向原の家。日本で最初の寺。疫病で像を捨てられ、寺を焼かれた。息子馬子が物部を滅ぼし、孫の蝦夷と入鹿が乙巳の変で滅んだ。
関わったできごと(1)
仏教の日本伝来AD538年(552年説もある) · 受けた本文
生まれた年は分からない。蘇我氏がどこから来た一族なのかも、はっきりしない。後の時代の系図は、伝説上の忠臣、武内宿禰を祖とし、石川、満智、韓子、高麗と続いて稲目に至るとする。韓子、高麗という名は朝鮮半島を思わせ、蘇我氏は渡来系の一族だったのではないかという説もあるが、確かな根拠は無い。本拠は大和の葛城から飛鳥にかけての地域だったと考えられている。
『日本書紀』によれば、稲目が大臣になったのは、宣化天皇が即位した536年である。大臣は、大連と並んで朝廷の政治を担う最高の地位だった。このとき大連を務めていたのは、古くから軍事を担ってきた大伴氏と物部氏である。蘇我氏は、それまで名の見えない新しい家だった。稲目の代で、蘇我氏は一気に朝廷の頂点に躍り出たことになる。
蘇我氏の力の源は、朝鮮半島から渡ってきた人々との結びつきだった。文字を書き、帳簿をつけ、土木や鉄の技術を持つ渡来人たちを配下に置き、朝廷の財政や記録の実務を担った。553年、稲目は渡来人の王辰爾に命じて、船にかかる税を記録させた。王辰爾の一族は船史の名を与えられた。555年からは、吉備に朝廷の直轄地である屯倉を置く仕事を進め、569年には、王辰爾の甥に、屯倉で耕作する人々の名簿を作らせた。人を帳簿で把握するこうした手法は、のちの戸籍の先がけとされる。540年頃には、朝鮮半島の任那の地の扱いをめぐって大伴金村が失脚しており、朝廷の中で稲目と大連の物部尾輿が並び立つ形になった。
稲目は天皇家とも深く結びついた。娘の堅塩媛と小姉君の二人を、欽明天皇の妃に入れた。堅塩媛は7男6女を産み、その中から用明天皇と推古天皇が出た。小姉君の子からは崇峻天皇が出た。用明天皇の子が聖徳太子(聖徳太子)である。稲目の孫たちが次々と天皇になり、蘇我氏は天皇の外戚として権力を固めていった。
稲目の名を歴史に残したのは、仏教との関わりである。『日本書紀』によれば、欽明天皇の時代、百済の聖明王が使者を送り、金銅の釈迦仏の像と経典を献上してきた(仏教の日本伝来)。書紀はこれを552年とするが、ほかの古い記録は538年としていて、こちらを採る研究者が多い。百済は高句麗や新羅との戦いで倭の援軍を求めており、仏教の献上はその外交の一環だった。
欽明天皇は、この仏を祀るべきかどうか群臣に問うた。稲目は、西の諸国はみなこれを礼拝している、日本だけが背いてよいものか、と答えた。これに対し、物部尾輿と中臣鎌子は、わが国の王は天地の多くの神々を祀ってきた、いま外国の神を拝めば国の神々の怒りを招くだろう、と反対した。天皇は、それなら試しに稲目に拝ませてみよと言い、仏像を稲目に授けた。稲目は喜んで像を小墾田の家に安置し、向原の家を清めて寺にした。日本で最初の寺の一つとされる。
ところが、まもなく疫病がはやり、多くの人が死んだ。物部尾輿らは、これは仏を拝んだために国の神が怒ったのだと訴えた。天皇の許しを得て、彼らは仏像を難波の堀江に投げ捨て、寺に火を放った。そのとき、空に雲もないのに風が吹き、雨が降り、宮殿の建物が焼けたと書紀は記している。こうした書紀の記事には、後の時代に仏教の側から整えられた部分があると考えられているが、仏教の受け入れをめぐって蘇我氏と物部氏が対立したこと自体は確かだと見られている。
稲目は570年に亡くなった。その遺志を継いだのは息子の馬子である。馬子は百済から来た仏像を再び祀り、少女たちを出家させた。尾輿の子の物部守屋も、父と同じく仏教に反対した。両家の争いは、皇位をめぐる対立と結びついて激しくなり、587年、馬子は皇子たちとともに守屋を攻め滅ぼした(蘇我氏と物部氏の戦い)。その後、馬子は対立した崇峻天皇を暗殺させ、姪の推古天皇を立てた(推古天皇の即位)。飛鳥の地には、日本で最初の本格的な寺院、飛鳥寺が建てられた。

稲目から始まった蘇我氏の繁栄は、稲目、馬子、蝦夷、入鹿と4代、100年あまり続いた。だが645年、入鹿は中大兄皇子と中臣鎌足に宮中で斬られ、蝦夷も自害して、蘇我氏の本家は滅んだ(天智天皇(中大兄皇子))。『日本書紀』はその後の時代に編まれた歴史書で、入鹿を皇位をうかがった逆臣として描いている。ただ稲目については、仏を受け入れた人として悪く書いてはいない。
稲目の家の跡とされる飛鳥の向原の地には、のちに豊浦寺が建てられた。発掘調査では、寺の下から推古天皇の豊浦宮とみられる建物の跡が見つかっていて、稲目の家が宮となり、さらに寺になったという伝えを裏付けるものと考えられている。2014年には、飛鳥の都塚古墳が、石を階段状に積み上げたピラミッドのような形をしていたことが分かり、稲目の墓ではないかと注目された。稲目の墓とする説はほかの古墳にもあり、定まっていない。仏教も、渡来人の技術も、天皇家との婚姻も、稲目の時代に、蘇我氏が飛鳥の朝廷に持ち込んだものだった。