天平の疫病
概要
大宰府から入った天然痘が都に達し、藤原四兄弟が全員死んだ。人口の3割前後が失われたとする推計がある。大仏の造立はこの直後になる。
場所
34.69°N 135.79°E · 日本・奈良県
本文
天平7年(735年)、九州の大宰府から都に知らせが届いた。管内で疫病が広がり、人々がみな病に伏している、と。都の歴史書『続日本紀』はこの病を「豌豆瘡」、俗に「裳瘡」と書く。豆のような発疹が出る病で、天然痘と考えられている。
当時の日本は、平城京遷都を都として律令の国づくりを進めていた。中国大陸や朝鮮半島との行き来は盛んで、遣唐使や新羅への使節、商人の船が九州を玄関として出入りしていた。病もその道を通って入ってきたとされる。735年の最初の流行は、朝鮮半島から渡ってきた船がもたらしたとする見方が多い。
最初の流行は、九州とその周辺を襲ったあと、いったん静まった。だが天平9年(737年)、再び広がり、今度は都に達した。この年の春、新羅へ送られた使節が帰国したが、大使は帰りの途中、対馬で病死し、副使らも病に倒れていた。この使節団が病を運んだとする見方がある。
都では、高い位の者から庶民まで、次々に死んだ。なかでも朝廷を驚かせたのは、藤原不比等の4人の息子の死である。737年4月に房前、7月に麻呂と、長男で右大臣の武智麻呂、8月に宇合。暦の月で数えて、わずか4か月ほどのうちに、4人がそろって死んだ。
この4人は、8年前の長屋王の変で、皇族の長屋王を自害に追い込み、異母妹の光明子を皇后に立てて、朝廷の実権を握っていた。その中心が、一夏で消えた。藤原氏の勢いはここで一時しぼみ、皇族出身の橘諸兄が政治を率いることになる。唐から帰った僧の玄昉と学者の吉備真備が、その相談役として重く用いられた。長屋王を追い詰めた4人がそろって死んだことを祟りと結びつける語りは、後の世に広まっている。
病は一般の人々の間にも広がった。死者の数を伝える記録は無いが、のちの研究者は、各地に残る税の帳簿や、国ごとに病で減った人の報告などから、人口の4分の1から3分の1ほどが死んだのではないかと推計している。成人男性の数から割り出した推計で、確かな数字ではない。それでも、社会を揺るがす規模だったことは分かる。
朝廷は、できる限りの手を打った。税や貸し付けた稲の返済を免除し、病人に薬や食べ物を配らせ、病の症状と手当ての心得を各地に知らせた。神々に祈り、寺で経を読ませた。
病が去っても、混乱は続いた。740年、玄昉と吉備真備を除けと求めて、藤原宇合の子の広嗣が九州で兵を挙げた。乱は鎮められたが、聖武天皇はその最中に都を離れ、恭仁、紫香楽、難波と、5年ほど都を移し続けた。
741年、聖武天皇は国ごとに寺を建てさせる詔を出した(国分寺建立の詔)。743年には、紫香楽の地で、盧舎那仏の大きな像を造ると宣言した。のちに平城京の東に場所を移し、752年に大仏開眼を迎える。病と乱と飢えが続いたあとで、仏の力によって国を守ろうとした政治として読むことができる。皇后の光明皇后は、これより前から、病人や貧しい人に薬と食べ物を施す施設を設けていたと伝えられる。
同じ743年には、新しく開いた田を永久に自分のものにしてよいとする墾田永年私財法も出された。働き手が大きく減り、荒れた土地が増えたことが、その背景の一つにあるとする見方がある。この法は、のちの荘園の広がりにつながっていく。
疫病は、この後も繰り返し日本を襲った。天平の流行のあと、天然痘は数十年ごとに流行を繰り返し、やがて子どもの病として定着していった。歴史家マクニールの物語「『疫病と世界史』で読む歴史」は、大陸の病が海を越えて、免疫を持たない島の人口を一度に大きく減らす例として、この時代の日本の流行を挙げている。人の行き来が増えれば、病も一緒に運ばれてくる。
天然痘が地上から消えたと宣言されたのは、1980年のことである(天然痘の根絶宣言)。奈良の大仏は、それより1200年あまり前、この病のあとの時代に造られた。