公孫氏の帯方郡
概要
遼東の公孫氏が楽浪の南に帯方郡を置いた。魏が238年に公孫氏を滅ぼして帯方を取り、翌年、卑弥呼の使者が帯方に来た。倭人伝の「帯方より倭に至るには」。倭と中国の間の郡。313年、高句麗が楽浪と帯方を滅ぼした。
場所
38.51°N 125.76°E · 朝鮮民主主義人民共和国・沙里院付近(郡治の推定地。諸説ある)
本文
紀元前108年、前漢の武帝は朝鮮半島の北部に楽浪郡などの郡を置いた(楽浪郡の設置)。楽浪郡は、いまの平壌のあたりを中心に、中国の役人が治める出先として300年余り続き、半島の南の韓の人々や、海の向こうの倭の人々にとって、中国の文物と接する窓口になった。だが2世紀の後半、後漢の力が衰えると、郡の支配は南の方から緩んでいく。『魏志』の韓伝は、後漢の末に韓と濊が強くなり、郡や県が抑えられなくなって、多くの民が韓の国々へ流れ込んだと書いている。
そのころ、遼東(いまの中国の遼寧省あたり)では、公孫度という人物が自立していた。189年に遼東太守に任じられた公孫度は、中原が董卓の専横と群雄の争いで乱れるのに乗じて、周りの地域を従え、自ら遼東侯・平州牧と名乗った。曹操も袁紹も遠く、手が出せなかった。204年に公孫度が死ぬと、子の公孫康が跡を継いだ。

公孫康は、建安年間(196〜220年)に、楽浪郡の南部、屯有県より南の荒れた地を切り分けて、新しく帯方郡を置いた。『魏志』によれば、公孫康は部下を送って散らばった旧来の民を呼び集め、兵を出して韓と濊を討った。民はしだいに郡に戻り、この後、倭と韓はついに帯方に属した、という。帯方郡の中心は、いまの北朝鮮の黄海道、沙里院の近くにあったとみられている。そのあたりでは「帯方太守」の名を刻んだ塼(れんが)を持つ墓が見つかっている。
公孫康の死後、遼東は弟の公孫恭、次いで康の子の公孫淵に引き継がれた。そのあいだに中原では魏が建ち、江南では呉が建った。公孫淵は魏に従うふりをしながら、海を越えて呉の孫権とも通じ、やがて呉の使者を斬って魏に首を送るなど、両者のあいだで揺れ動いた。237年、公孫淵はついに燕王を名乗って魏から離れた。

魏は司馬懿を送った。238年、司馬懿は遼東の襄平を囲んで落とし、公孫淵とその子を斬った。これと前後して、魏は海路で役人を送り、楽浪と帯方の二郡をひそかに押さえていた。半世紀にわたった公孫氏の遼東支配はここで終わり、帯方郡は魏の手に入った。
それを待っていたかのように、倭の女王卑弥呼の使いがやってくる。『魏志』の倭人伝によれば、難升米らが帯方郡に至り、天子に朝献したいと願い出た。帯方太守の劉夏は役人をつけて都の洛陽へ送り届けた。その年の12月、魏の皇帝は卑弥呼を「親魏倭王」とし、金印紫綬を与え、銅鏡100枚などを贈ると約束した(卑弥呼の遣使)。倭人伝は、使いが来た年を景初2年(238年)と記すが、公孫氏が滅びた直後で道が通じていたか疑わしいとして、景初3年(239年)の誤りとみる説が有力である。
倭人伝は、まさに帯方郡を起点にして書かれている。倭人は帯方の東南の大海の中にあり、という書き出しに始まり、郡から倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓の国々を経て狗邪韓国に至り、そこから海を渡って対馬、一支(壱岐)、末盧、伊都、奴と進む道のりが続く。伊都国には郡の使いが行き来するときに常にとどまる所がある、とも書く。正始元年(240年)には帯方太守の弓遵が使いを倭に送って詔書と印綬を届けた。正始年間の後半には、太守の王頎のもとへ、卑弥呼が南の狗奴国の王と争っていることを訴える使いが来て、郡は役人の張政を倭へ派遣した。魏と倭のやりとりは、すべて帯方郡を通して行われていた。そのあいだに弓遵は、郡に背いた韓の国々との戦いで戦死している。
帯方郡は、魏から晋へと受け継がれたが、晋が内乱で衰えると、支える力を失った。313年、高句麗の美川王が楽浪郡を滅ぼし、翌314年には帯方郡も滅んだとされる。前漢の武帝以来、400年余り続いた中国の郡の時代が、朝鮮半島で終わった。郡にいた漢人の役人や知識人の子孫の一部は、高句麗や百済に仕え、また海を渡って倭に移り住んだ人々もいたと考えられている。文字や暦、鉄の技術を伝えた渡来人の中には、こうした郡の遺民の流れをくむ人々が含まれていたとみられる。