← 地図で見る
Event / できごと

公孫氏の帯方郡

Gongsun clan founds Daifang
AD204年
重要度 3

概要

遼東の公孫氏が楽浪の南に帯方郡を置いた。魏が238年に公孫氏を滅ぼして帯方を取り、翌年、卑弥呼の使者が帯方に来た。倭人伝の「帯方より倭に至るには」。倭と中国の間の郡。313年、高句麗が楽浪と帯方を滅ぼした。

場所

平壌
39.04°N 125.76°E · 朝鮮民主主義人民共和国

本文

後漢の終わり、遼東は公孫度が独立していた。曹操も袁紹も遠くて手が出せない。公孫度は「遼東侯・平州牧」を自称し、息子の公孫康が継いだ。

204年頃、公孫康は楽浪郡の南半分、荒れて統治が届かなくなっていた「屯有県以南」を切って、帯方郡を置いた。ソウルの北、黄海道あたり。楽浪の南の韓と倭への窓口を、そこにまとめた。

238年、魏の司馬懿が公孫淵(康の子)を襄平で滅ぼし、楽浪と帯方は魏のものになった。翌239年6月、倭の女王卑弥呼の使者難升米が帯方郡に来た。帯方太守劉夏が洛陽へ送った。「親魏倭王」の金印と銅鏡100枚。『魏志倭人伝』の冒頭は「倭人は帯方の東南、大海の中にあり」で、道のりは「郡より倭に至るには、海岸に循って水行し」で始まる。帯方から狗邪韓国、対馬、壱岐、末盧、伊都、奴、不弥、投馬、邪馬台。

245年、帯方太守の弓遵が韓と戦って死んだ。倭人伝の記事はここで途切れがちになる。

313年、高句麗の美川王が楽浪を滅ぼし、翌年、帯方も。漢の郡が朝鮮半島にあった400年が終わった。楽浪の役人の子孫は高句麗と百済に仕え、あるいは倭に渡った。

同じ時代のできごと

黄巾の乱AD184年董卓の洛陽焼き討ちAD190年コンモドゥスの暗殺と五皇帝の年AD192年12月31日孫策の江東平定AD195年曹操の屯田AD196年テルトゥリアヌス『護教論』AD197年袁術の皇帝僭称AD197年呂布の死AD199年2月