人物

藤原頼通

Fujiwara no Yorimichi
AD992年 – AD1074年3月2日(享年82・推定)
平安時代重要度 4

概要

道長の長男。26歳で摂政、50年関白。娘に皇子が生まれず、藤原を外戚としない後三条が即位した。宇治に退いて平等院。「宇治殿」。父の栄華を守って、終わらせた。83歳。

関わったできごと(1)

平等院鳳凰堂AD1053年(天喜元年) · 建てた

本文

992年、藤原道長の長男として生まれた。母は左大臣源雅信の娘、倫子である。父が権力の頂点へ上っていく時期に育ち、はじめから跡継ぎとして扱われた。幼名は田鶴(たづ)。12歳で元服して官位を与えられ、異例の速さで昇進していった。

藤原頼通の肖像
藤原頼通の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

結婚にまつわる話が『栄花物語』に残る。頼通は、村上天皇の孫にあたる具平親王の娘、隆姫を妻に迎え、深く愛した。ところが三条天皇が自分の皇女を頼通に嫁がせたいと言い出し、道長も乗り気になった。頼通は涙を流して困り果て、ついには病に伏したという。結局この縁談は立ち消えになった。隆姫との間には子が生まれず、頼通の跡を継いだ師実は、別の女性が産んだ子だった。

1017年、父道長は摂政を辞し、26歳の頼通にその座を譲った。天皇は道長の娘彰子が産んだ後一条天皇で、まだ数え10歳の少年だった。2年後の1019年、頼通は関白となる。父は出家した後も実権を握り続けたが、1027年に道長が死ぬと、頼通は名実ともに朝廷の最高の地位に立った。以後、1067年に関白を辞するまでおよそ50年、後一条・後朱雀・後冷泉の三代の天皇の摂政・関白を務めた。藤原氏の歴史の中でも最も長い。

藤原頼通肖像
藤原頼通肖像Wikimedia Commons ラッチキング · Public domain

父の作った体制は盤石に見えた(摂関政治の頂点)。後朱雀天皇の母も彰子、後冷泉天皇の母は道長の別の娘嬉子である。三代の天皇はみな、頼通の甥にあたった。華やかな宮廷文化も栄えた。頼通は1035年に自邸で大規模な歌合を催し、和歌の世界の後ろ盾となった。

だが、頼通の時代の地方は穏やかではなかった。1028年には房総で平忠常が反乱を起こし、鎮圧に3年かかった。1051年には東北で前九年の役(前九年の役)が始まる。地方の武士たちの力が育ち、国司と争う事件も相次いだ。都の政治は前例と儀式を重んじ、こうした変化に十分に応えられなかった。

前九年の役に関わる図版:A-38 C0080776
前九年の役Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

最大の問題は、娘だった。摂関家の力の源は、娘を天皇の后にし、生まれた皇子を次の天皇に立てて、外祖父として政治を握ることにあった。ところが頼通には、なかなか娘が生まれなかった。後朱雀天皇には、養女として育てた嫄子を入内させたが、生まれたのは皇女だけで、嫄子は若くして世を去った。ようやく生まれた実の娘寛子を後冷泉天皇の后にしたが、皇子は生まれなかった。弟の教通の娘も同じだった。

その間に、別の道が開いていた。後朱雀天皇には、三条天皇の娘禎子内親王が産んだ皇子、尊仁親王がいた。藤原氏を母としない皇子である。1045年、後朱雀天皇は死の直前、この皇子を皇太子に立てた。頼通は乗り気でなかったと伝えられる。後冷泉天皇に皇子が生まれれば、皇太子を替えられる。頼通はそう期待して、皇太子の位の印である壺切の剣を、尊仁親王に渡さなかったという話も残る。

平等院鳳凰堂
平等院鳳凰堂Wikimedia Commons 663highland · CC BY 2.5

頼通は待ち、皇太子もまた待った。23年の歳月が流れ、皇子は生まれなかった。1067年、頼通は関白を辞し、弟の教通が後を継いだ。翌1068年、後冷泉天皇が死に、皇太子が即位した。後三条天皇である。藤原氏の娘を母としない天皇は、宇多天皇以来、およそ170年ぶりだった。

この間に頼通は、心のよりどころを別の場所に求めていた。1052年は、釈迦の教えが衰えて世が乱れる末法の時代に入る年だと信じられていた(末法の始まり)。その年、頼通は父から受け継いだ宇治の別荘を寺に改め、平等院とした。翌1053年には阿弥陀堂、のちに鳳凰堂と呼ばれる堂が完成した(平等院鳳凰堂)。仏師定朝が作った阿弥陀如来が中央に座り、壁には雲に乗って舞い奏でる菩薩たちが掛けられた。池に映る堂の姿は、極楽浄土をこの世に写したものだった。京では、極楽を疑うなら宇治の御寺を敬え、という歌がはやったという。人々は頼通を「宇治殿」と呼んだ。

平等院鳳凰堂に関わる図版:Phoenix Hall in Byodo-in Temple, Ujirenge Uji city 2026
平等院鳳凰堂Wikimedia Commons Tomio344456 · CC0

後三条天皇は即位の翌年、荘園整理令を出した(延久の荘園整理令)。証拠の書類の無い荘園を停止するという命令で、摂関家の膨大な荘園も対象になりうるものだった。鎌倉時代の歴史書『愚管抄』によれば、頼通は、自分の荘園は人々が寄進してきたものを受け取っただけで、証拠などない、不都合があれば遠慮なく停止してほしい、と答えた。天皇はかえって手が出せなくなり、頼通の荘園は整理を免れたという。

1072年、頼通は出家した。1074年、宇治で死んだ。83歳だった。同じ年の秋には、姉で、一条天皇の中宮として紫式部を仕えさせた彰子も、87歳で世を去っている。道長の時代を知る人々が、相次いで去った。

頼通の50年は、父の築いた体制を守り抜いた50年であり、同時にその体制が終わっていくのを見届けた50年でもあった。後三条の子の白河天皇は、やがて位を譲った後も上皇として政治を握る院政を始める(院政の開始)。摂関家は名門として続いたが、政治の中心ではなくなった。いま十円硬貨に刻まれている鳳凰堂は、頼通が残した最も確かな遺産である。

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