できごと

藤原京

Fujiwara-kyō
AD694年
重要度 4
藤原京に関わる図版:210401 One-thousandth scale model of Aramashinomiyako
210401 One-thousandth scale model of Aramashinomiyako Wikimedia Commons 名古屋太郎 · CC0

概要

唐の都を写して碁盤の目に道を通し、宮を中央に置いた。日本で最初の、計画された都。持統天皇が移り、16年使われ、平城京に移って捨てられた。田の下に、その道の跡が埋まっている。

場所

藤原京
34.50°N 135.81°E · 奈良県橿原市

関わった人(1)

持統天皇AD645年–AD703年 · 天皇

本文

それまでの日本の都は、天皇が代わるたびに宮を移すのがふつうだった。宮は天皇の住まいと政治の場を兼ね、豪族たちはそれぞれ自分の本拠から通った。だが、壬申の乱に勝って強い力を手にした天武天皇は、中国にならった律令の国づくりを進め、それにふさわしい、動かない都を造ろうとした。役人を一か所に住まわせ、毎日宮へ通わせる。そのためには、道と区画を計画して敷いた都が要る。

『日本書紀』によれば、天武天皇は676年に新しい都の計画を始め、682年には「新城」に出かけ、684年には都を巡って宮の場所を定めた。だが686年、都の完成を見ずに死んだ。後を継いだ妻の持統天皇が工事を進め、690年に藤原の宮の地を視察させ、翌年には新しい都の地を鎮める祭りを行った。そして694年12月、持統天皇は藤原宮に移った。

藤原宮 大極殿院閤門跡列柱は実際位置から南30メートルで標示。奥に大極殿跡(樹叢)。
藤原宮 大極殿院閤門跡列柱は実際位置から南30メートルで標示。奥に大極殿跡(樹叢)。Wikimedia Commons 663highland · CC BY 2.5

都の場所は奈良盆地の南、大和三山に囲まれた土地である。東に香具山、西に畝傍山、北に耳成山がそびえる。持統天皇の歌「春過ぎて夏来たるらし白妙の衣干したり天の香具山」は、この都から香具山を眺めて詠んだものとされる。『書紀』はこの都を「新益京」と書いていて、「藤原京」という呼び名は、近代の学者が使い始めたものである。

都には碁盤の目のように縦横の道が通され、区画が整然と割り付けられた。これを条坊制という。区画の中には役所や皇族・貴族の屋敷、寺院、市が置かれ、位の高い者ほど宮に近く広い土地を与えられた。豪族たちは本拠の土地を離れ、都に住む役人になっていく。藤原京の大きな特徴は、宮が都の真ん中に置かれたことである。唐の長安では宮は都の北の端にあり、のちの平城京や平安京もそれにならう。都の中央に宮を置くのは、中国の古典『周礼』に描かれた理想の都の形で、藤原京はそれを本で学んで写したのではないかと考えられている。

藤原宮 大極殿跡
藤原宮 大極殿跡Wikimedia Commons Saigen Jiro · CC0

都の大きさについては、長く東西約2キロ、南北約3キロほどと考えられていた。ところが1990年代に、それまで都の外と思われていた場所の発掘で次々に道路の跡が見つかり、都は5キロ四方を超える大きさで、のちの平城京より広かったと分かった。「大藤原京」と呼ばれる考えである。

宮の中には、日本で初めて瓦を葺き、礎石の上に柱を立てた大きな宮殿群が建てられた。それまでの宮は、柱を地面に直接埋めた掘立柱の建物で、屋根は板や檜の皮で葺いていた。大陸風の宮殿は、新しい国の威信を目に見える形で示すものだった。持統天皇の後を継いだ文武天皇は701年の正月、大極殿で役人たちの拝賀を受けた。この年、大宝律令が完成し、ここで施行された。

藤原京 朱雀大路跡北方に藤原宮跡を望む。後背は耳成山。
藤原京 朱雀大路跡北方に藤原宮跡を望む。後背は耳成山。Wikimedia Commons Saigen Jiro · CC0

藤原宮の跡からは、何万点もの木簡が出ている。その中に、地方の行政の単位を「評」と書いたものと「郡」と書いたものがある。700年までの木簡は「評」、701年からは「郡」と書かれていた。『書紀』は大化の改新の詔にすでに「郡」と書いているが、それが後から書き直されたものだったことが、木簡で確かめられたのである。古代史の大きな論争が、地中から出た木の札で決着した。

だが、この都は長く続かなかった。710年、元明天皇は北の平城京遷都に移った。藤原京は16年で捨てられた。なぜ移ったのかは、はっきり分かっていない。土地が南東から北西へ低く傾き、宮が低いところにあったために水はけが悪く、汚れた水がたまったという説がある。702年に遣唐使として唐に渡った人々が長安の姿を見て帰り、それと違う都の形を改めようとした、という説もある。宮の建物の多くは解体され、平城京へ運ばれて使い直されたと考えられている。

藤原宮の復元模型(橿原市藤原京資料室所蔵)。東側から見る
藤原宮の復元模型(橿原市藤原京資料室所蔵)。東側から見るWikimedia Commons 名古屋太郎 · CC0

人々が去った都は、やがて田畑になった。1934年に大極殿の跡の発掘が始まり、今も調査が続いている。広い宮の跡には、大極殿の土壇と、季節の花が植えられた野原が広がり、その向こうに大和三山が昔のままに見えている。

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