承和の変
概要
嵯峨上皇が死んだ2日後、伴健岑と橘逸勢が皇太子恒貞親王を擁して謀反、と密告された。皇太子は廃され、道康親王(文徳)が太子に。母は藤原良房の妹。橘逸勢は流される途中で死んだ。良房が作った事件と考えられ、藤原北家の他氏排斥の最初。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
関わった人(1)
藤原良房AD804年–AD872年 · 仕組んだと考えられる本文
842年7月15日、嵯峨上皇が死んだ(嵯峨天皇)。退位してからも20年近く、上皇は朝廷の重しであり続けていた。そのわずか2日後、事件が起きる。
当時の皇位の継ぎ方は、少し入り組んでいた。嵯峨天皇は弟の淳和天皇に位を譲り、淳和は嵯峨の子の仁明天皇に位を譲った。そして仁明天皇の皇太子には、淳和の子の恒貞親王が立てられていた。兄弟の家が交互に位を継ぐ形で、嵯峨上皇がその釣り合いを保っていた。

一方、仁明天皇には、藤原北家の良房の妹順子とのあいだに、道康親王という男子がいた。藤原良房は、甥の道康を皇位につけたいと考えていたとされる。恒貞親王の側も、自分の立場の危うさを感じ、何度か皇太子を辞退しようとしていたと伝えられる。
7月17日、平城天皇の皇子である阿保親王が、嵯峨上皇の皇后だった橘嘉智子に、一通の書状を届けた。春宮坊(皇太子の家政を扱う役所)に仕える伴健岑と、但馬権守の橘逸勢が、皇太子を奉じて東国へ行き、兵を挙げようと誘ってきた、という密告である。嘉智子はこれを良房に伝え、良房が仁明天皇に奏上した。
その日のうちに、健岑と逸勢は捕らえられた。厳しい取り調べを受けたが、二人とも罪を認めなかったとされる。7月23日、恒貞親王は皇太子を廃された。親王自身は謀反に関わっていないとされながら、側近が計画したことの責任を問われた形だった。大納言の藤原愛発や中納言の藤原吉野ら、親王に近い高官も官を解かれ、都から遠ざけられた。8月、道康親王が新たに皇太子に立てられた。のちの文徳天皇である。
伴健岑は隠岐へ流された。橘逸勢は、橘の姓を奪われ「非人」という姓を与えられて、伊豆へ流されることになった。逸勢は、空海や最澄とともに唐に渡った人で、書の名人として嵯峨天皇、空海と並んで三筆に数えられる。伊豆へ向かう途中、遠江の国で逸勢は死んだ。父を慕って後を追っていた娘が亡骸を葬り、そのそばで弔いを続けたと伝えられる。事件に連座して処罰された者は、60人を超えた。
事件のあと、良房は大納言に進み、朝廷の中心に立った。道康親王が即位すると(文徳天皇)、良房の娘明子が生んだ皇子が生後1年もたたずに皇太子になり、のちに9歳で即位する。清和天皇である。良房は、天皇の外戚として権力を握る北家の型をここで作った(藤原良房の摂政)。
健岑と逸勢が本当に謀反を企てていたのかは、分かっていない。嵯峨上皇という重しがいなくなった直後の密告、すばやい処分、そして結果として良房の甥が皇太子になったことから、良房が仕組んだか、少なくともこの機会を利用した事件だと考える研究者が多い。事件を記した正史『続日本後紀』の編纂の中心にいたのが、ほかならぬ良房だったことも、その疑いを強めている。
この事件は、藤原北家が他の氏族を朝廷から退けていく「他氏排斥」の最初とされる。そのあと、応天門の変で伴氏が、阿衡の紛議を経て、菅原道真の左遷(菅原道真)、そして969年の安和の変で源氏の有力者が退けられた。およそ130年のあいだに、北家は朝廷の高い地位をほとんど独占するに至る。古い名門である橘氏は、この事件をきっかけに政治の表から姿を消していった。

廃された恒貞親王は出家して恒寂と名乗り、のちに嵯峨の離宮を寺に改めた大覚寺の初代の住持になったと伝えられる。一方、無実を訴えながら死んだ橘逸勢は、怨霊として恐れられた。863年、平安京の神泉苑で行われた御霊会では、非業の死を遂げた6人の霊の一人として、逸勢が祀られている。