氷室
概要
冬に山で採った氷を、藁と土で覆った穴に入れ、夏まで保つ。『日本書紀』は仁徳朝の話として伝え、律令では宮内省に主水司が置かれ、氷池と氷室が管理された。旧暦六月一日の氷の節句に、朝廷が氷を配る。清少納言が削り氷に甘葛をかけたものを書いている。氷は献上品であり、贈られる相手の格を示した。同じ仕組みは、ペルシアのヤフチャール、中国の凌陰、ローマの雪の貯蔵にもある。暑い季節に冷たいものを出せることが、権力の見せ方だった。
場所
34.69°N 135.81°E · 奈良県
本文
冬のあいだに、山の池や谷にはった氷を切り出す。それを山の斜面に掘った穴に入れ、藁や茅を厚く敷き、土をかぶせて覆う。斜面に掘るのは、溶けた水がすぐに抜けるようにするためである。水が溜まると、氷はそれに触れて早く溶けてしまう。こうして断熱と水はけを工夫すれば、冬の氷を夏まで保つことができる。これが氷室である。
『日本書紀』(『日本書紀』の完成)には、仁徳天皇の時代の話として、氷室の由来が記されている。皇子の額田大中彦が、大和の闘鶏という土地で狩りをしていたとき、野の中に小屋のようなものを見つけた。土地の長に尋ねると、氷室だと答えた。地面を一丈あまり掘り、草で屋根をふき、茅やすすきを厚く敷いて、その上に氷を置く。夏を過ぎても溶けず、暑い時期に水や酒に浸して使うのだという。皇子がその氷を天皇に献上したのが始まりで、以後、冬に氷を蔵し、春から夏に使うことが定めになった、と書紀は伝える。5世紀の話をそのまま史実とすることはできないが、のちの律令の時代に、氷室が国の制度として営まれていたことは確かである。
律令のもとでは、宮内省の下に主水司という役所が置かれ、宮中の飲み水や氷、粥のことを受け持った。都の近くの山城、大和、河内、近江、丹波などに、氷を作る池と、それを蓄える氷室が指定された。平安京の北の山あいには、いまも「氷室」の地名が残っている。氷を作り、運び、蓄え、番をするために、多くの人手が割り当てられた。氷は、宮中への大事な貢ぎ物の一つだった。
氷は占いにも使われた。正月の儀式では、各地の氷室から届いた氷の厚さが天皇に奏上された。氷様奏と呼ばれ、氷が厚ければその年は豊作だと占われたという。そして旧暦の六月一日、夏の盛りに入るころ、朝廷は氷室の氷を臣下に分け与えた。誰にどれだけ配るかは、そのまま身分の順を表していた。
『枕草子』の「あてなるもの(上品なもの)」の段には、削った氷に甘葛をかけ、新しい金属の椀に入れたものが挙げられている。甘葛は、蔦の樹液を煮詰めて作った甘味料で、その作り方は長く失われ、近年になって再現が試みられている。千年前のかき氷である。それが上品なものとされたのは、味のためだけではない。夏に氷を口にできる人は、ごく限られていた。

氷を届けることの意味は、江戸時代にも生きていた。加賀藩は毎年、金沢の氷室に蓄えた雪氷を、旧暦六月一日に間に合うよう江戸の将軍に献上した。飛脚が昼夜を問わず走り、百里を超える道を数日で運んだと伝えられる。溶けながらの旅で、着いたときにどれほど残っていたかは分からない。それでも、届けること自体に意味があった。金沢ではいまも、新暦の七月一日に「氷室饅頭」を食べて無病息災を願う。
同じ仕組みは、世界の各地にあった。中国では、古代の歌を集めた『詩経』に、冬の寒い日に氷を切り出し、それを凌陰(氷を蓄える室)に納める、という一節がある。周の制度を記した書物には、氷を管理する役人が見え、陝西省では春秋時代の秦の都の跡から、大きな氷室の遺構が見つかっている。
乾いた土地のペルシアでは、ヤフチャールと呼ばれる氷の貯蔵庫が作られた。日干しレンガを円錐の形に高く積み上げ、内部は地下深く掘り下げてある。壁は根元で二メートルを超えるほど厚く、砂や粘土、石灰、灰、獣の毛などを混ぜた漆喰で防水と断熱を施した。冬の晴れた夜には、浅い水路に水を張り、夜空へ熱が逃げていく放射冷却で薄い氷を作った。気温が氷点より少し高くても、雲のない夜には水が凍る。そうして集めた氷で、砂漠の夏に冷たい飲み物を出したのである。いまもイランの各地に、その遺構が立っている。
ローマでは、山から雪を運ばせて穴に詰め、夏の飲み物を冷やした。哲学者セネカは、雪を金で買う者たちの贅沢を嘆いている。皇帝ネロは、一度沸かした水を雪で冷やして飲むのを好んだと伝えられる。

どの土地でも、氷は権力の見せ方だった。暑い季節に冷たいものを出せるということは、冬から夏まで氷を保つ組織を持っているということである。穴を掘り、氷を切り、運び、番をする人々を動かせる者だけが、夏の氷を手にできた。その氷は、19世紀には船で運ばれて売り買いされる商品になり(天然氷の交易)、やがて機械が作るものになる(製氷機)。氷室は、そこへ至るまでの千年以上のあいだ、冷たさを貴いものにしていた。