できごと

百済の滅亡

Fall of Baekje
AD660年
重要度 4
古シベリアの狩猟採集民北極圏の海獣狩猟民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民唐ヒンドゥーの諸王国突厥吐蕃カナウジガウダ王国(シャシャーンカ)高句麗タイ系の諸王国アイヌKamarupa真臘ドヴァーラヴァティー扶南日本新羅チャンパAD660年泗沘(扶余)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD660年の版図を描いています(19勢力)。

概要

唐の13万が海から、新羅の5万が陸から来た。階伯の5000が黄山で四度勝って五度目に全滅し、都の泗沘が落ちた。王は唐へ連れ去られ、遺臣が日本に救援を求めた。それが白村江になる。

場所

泗沘(扶余)
36.28°N 126.91°E · 韓国・忠清南道

関わった人(2)

金庾信AD595年–AD673年 · 新羅軍文武王?–AD681年 · 新羅の太子として

本文

7世紀の朝鮮半島には、高句麗・百済・新羅の三国が並んでいた。百済の義慈王は即位してまもない642年、新羅の西の城40余りを奪い、さらに要衝の大耶城を落とした。城主の金品釈は妻とともに殺されたが、その妻は新羅の王族、金春秋の娘だった。娘を失った春秋は、百済を討つための味方を探して歩き始める。

春秋はまず高句麗に援けを求めて捕えられかけ、逃れて帰った。647年には倭にも来たと『日本書紀』は記す。648年には唐に渡って太宗に会い、新羅の官服を唐の様式に改め、のちに唐の年号を使うことを約した。小国の新羅が大国の唐を後ろ盾にする道を選んだのである。654年、春秋は王位に就き、武烈王となった。唐の側も、何度攻めても落ちない高句麗を挟み撃ちにするため、まず南の百済を除くことを考えるようになっていた。

金庾信の肖像(朝鮮時代の肖像画集より)
金庾信Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

百済の側は、勝ち続けたことで緩んでいたとされる。『三国史記』は、義慈王が晩年に酒色にふけり、諫めた佐平の成忠を獄に下したと書く。成忠は獄中で死ぬ前に「敵が来たら、陸は炭峴を越えさせず、水軍は白江の河口に入れてはならない」と言い残した。660年、唐と新羅が動いたと聞いて、王は流されていた興首にも意見を求めた。興首も同じ二つの要所を守れと答えたが、大臣たちは興首が王を恨んでいると言って退けた。

この年、唐の高宗は蘇定方に13万の兵を与え、山東から海を渡らせた。新羅の太子法敏(のちの文武王)は100隻の船で徳物島に出迎え、7月10日に泗沘の南で落ち合うことを約した。武烈王は金庾信に5万を与え、陸から西へ進ませた。二つの要所はいずれも守られず、新羅軍は炭峴を越え、唐軍は白江の河口へ向かった。

百済の将軍階伯は、5000の決死の兵を率いて黄山の野(いまの論山の近く)に出た。出陣の前に、敵の奴婢となるよりは死んだほうがよいと言って、自分の妻子を手にかけたと伝えられる。階伯は三つの陣を構え、新羅の大軍と四度戦って四度退けた。新羅軍の士気が落ちたとき、将軍品日の子で16歳の花郎官昌が一騎で敵陣に突き入った。捕えられた官昌は、階伯がその若さを惜しんで送り返したが、再び突き入って首を斬られ、首は馬の鞍に結ばれて戻された。これを見た新羅軍は奮い立って総攻撃をかけ、階伯は戦死し、百済軍は崩れた。

この戦いで新羅軍は約束の日に遅れた。『三国史記』によれば、蘇定方は新羅の督軍金文穎を斬ろうとし、金庾信は斧を手に、それならまず唐と戦うと迫って止めさせたという。同盟の内側にも、すでにひびがあった。

唐軍は白江の河口の伎伐浦に上陸して百済軍を破り、唐と新羅の軍は泗沘を囲んだ。義慈王は太子とともに北の熊津城へ逃れたが、都はまもなく落ち、7月18日、王は熊津から出て降った。百済が都を泗沘に移してから122年後のことだった。王と太子、王子たち、大臣・将士88人、民1万2800余りが唐へ連れ去られ、義慈王はその年のうちに洛陽で病死した。後に白馬江に身を投げた宮女たちを「落花岩」の伝説が語るが、これは後世に広まった物語である。

百済の旧地には唐の都督府が置かれたが、国はすぐには消えなかった。王族の鬼室福信と僧の道琛は周留城などに拠って兵を挙げ、倭に使いを送って、人質として倭に滞在していた王子豊璋の帰国と援軍を求めた。斉明天皇はこれに応じ、自ら九州へ下ったが、661年に筑紫の朝倉宮で没した。中大兄皇子(天智天皇(中大兄皇子))が後を引き継ぎ、豊璋を送り返す。しかし復興軍の内部では福信と道琛が争い、豊璋は福信を殺した。

663年、倭の水軍は白江の河口で唐の水軍に大敗する(白村江の戦い)。周留城も落ち、豊璋は高句麗へ逃れた。百済の遺民の多くが倭に渡り、近江や東国に住んで、城づくりや政治の技術を伝えた。唐はつづいて668年に高句麗を滅ぼし(高句麗の滅亡)、その後、唐と戦って半島から追い出した新羅が、676年に大同江より南をまとめる(新羅の朝鮮半島統一)。紀元前18年の建国の伝承(百済の建国(伝承))から数えて約700年の百済の歴史は、こうして終わった。

同じ時代のできごと

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