継体天皇
概要
男大迹王。越前の三国。応神五世の孫。58歳で迎えられた。樟葉、筒城、弟国、20年後に磐余玉穂。磐井の乱を鎮めた。手白香皇女との子が欽明。今城塚古墳が真の陵とされ、宮内庁は別の古墳を陵にしている。王朝交替説の中心。
関わったできごと(1)
継体天皇の即位AD507年 · 天皇本文
継体天皇は、名を男大迹(をほど)という。『古事記』は袁本杼と書く。『日本書紀』によれば、父は彦主人王、母は振媛で、父方は応神天皇の五世の孫、母方は垂仁天皇の七世の孫にあたる。生まれは近江の高島とされ、幼いうちに父を亡くし、母の里である越前の高向(いまの福井県坂井市のあたり)で育った。

506年、武烈天皇が跡継ぎを残さずに死んだ。『日本書紀』の筋書きでは、大伴金村らはまず丹波にいた仲哀天皇の子孫、倭彦王を迎えようとしたが、迎えの兵を見た倭彦王は恐れて山に逃げた。そこで越前の男大迹王に白羽の矢が立った。王はしばらく疑って応じなかったが、河内の馬飼の首、荒籠がひそかに使いを送って大臣たちの本心を伝え、ようやく腰を上げたという。翌507年、河内の樟葉宮で即位した(継体天皇の即位)。書紀の数え方では58歳である。
即位したあとも、継体はすぐには大和に入らなかった。511年に山背の筒城、518年に弟国へ宮を移し、磐余の玉穂宮に入ったのは526年、即位から20年後のことだ。書紀はその理由を書かない。大和の豪族の中に新しい王を認めない勢力があったため、と考える研究者は多い。

継体を支えたのは、近江・越前・尾張・河内の豪族だった。妃の顔ぶれがそれを物語る。尾張連草香の娘、目子媛が産んだ子が、のちの安閑天皇と宣化天皇である。一方で継体は、前の王統の娘、仁賢天皇の娘で武烈天皇の姉にあたる手白香皇女を皇后に迎えた。この二人のあいだに生まれたのが欽明天皇で、のちの天皇家はこの血筋につながっていく。外から来た王が、前の王家の娘と結ばれることで正統を手にした、と読める。
在位中の大事件は、朝鮮半島と九州で起きた。512年、百済の求めに応じて任那の四つの県を百済に渡したと書紀は記す。のちにこれは大伴金村の失策として責められ、金村が退く理由になった。527年、新羅を討つために近江毛野が兵を率いて渡ろうとしたとき、筑紫の君磐井が新羅と通じて道を塞いだ。継体は物部麁鹿火を送り、528年、筑紫の御井郡での戦いで磐井は斬られた(磐井の乱)。地方の大豪族を倭の王権が力で抑えた、早い例である。

死んだ年ははっきりしない。書紀は531年、82歳とする。ところが書紀自身が、これは『百済本記』に拠ったもので、別の本には534年とあると断り、「後に考える者が知るだろう」と書き添えている。『百済本記』には、その年に日本の天皇と太子と皇子がそろって死んだという一文も引かれている。ここから、継体の死の前後に政変があり、安閑・宣化の朝廷と欽明の朝廷が並び立ったのではないかという説(辛亥の変、二朝並立説)が唱えられた。『古事記』は527年、43歳の死とし、年齢の食い違いはさらに大きい。どれが正しいかは決め手がない。
継体の出自そのものも議論の的だ。応神五世の孫という系譜は、書紀には父の名までしかなく、途中の代は鎌倉時代の『釈日本紀』に引かれた『上宮記』の逸文で補われる。五世の孫という遠さに加え、即位から大和入りまでの20年を合わせて、継体を前の王統とは血のつながらない新しい王朝の始まりとみる王朝交替説が戦後に広く論じられた。一方で、系譜をそのまま認める立場や、地方の有力な王族が迎えられたとみる立場もあり、決着はついていない。
継体の墓について、宮内庁は大阪府茨木市の太田茶臼山古墳を三嶋藍野陵としている。しかしこの古墳は5世紀中頃の築造とみられ、継体の時代と合わない。一方、近くの高槻市にある今城塚古墳は6世紀前半の築造で、淀川流域で最大級の前方後円墳であり、こちらを本当の墓とみる説が有力になっている。陵に指定されていないため発掘ができ、高槻市の調査で、武人・巫女・力士・家・馬・鶏などをかたどった200点を超える埴輪を並べた区画が見つかった。王の葬送の場面を表したものと考えられている。石室は1596年の伏見地震で崩れていた。
いま今城塚古墳は公園として整えられ、誰でも墳丘に上がることができる。天皇の墓とされる古墳に人が自由に登れるのは珍しい。越前から迎えられ、20年かけて大和に入った王の墓かもしれない場所である。