三井高利
概要
伊勢松坂の商家の八人兄弟の末子。十四歳で江戸の兄の店へ出て、才を認められ、そして疎まれて呼び戻された。以後二十年以上、松坂で金貸しをしながら機を待った。兄の死後、五十二歳で江戸に越後屋を開く。現金払い、正価、切り売り、そして店頭販売。両替商も兼ね、幕府の公金の為替を扱って信用を得た。息子たちに家を分けず、一族の共有財産として経営する形を定めた。その仕組みが、後の三井の基礎になった。
関わったできごと(1)
現金掛け値なしAD1683年 · 始めた本文
三井高利は1622年、伊勢の松坂に、8人きょうだいの末っ子として生まれた。父の高俊は質屋と酒・味噌の商いを営んでいたが、商売よりも文雅を好む人だったと伝えられる。店を支えたのは母の殊法(しゅほう)だった。伊勢の商家の出で、倹約と才覚で知られ、その教えはのちまで三井家に語り継がれた。

14歳のとき、高利は江戸へ出て、長兄の俊次が本町四丁目に開いていた呉服の店「越後屋」で働き始めた。ここで彼はめきめきと頭角を現し、若くして店の切り盛りを任されるまでになったと伝えられる。だが、あまりの才覚は兄の警戒を招いた。28歳のころ、母の世話を名目に松坂へ帰され、兄の存命中は江戸で商いをすることを許されなかった。
それから20年あまり、高利は松坂で待った。金貸しなどで着実に元手を蓄え、子どもたちを次々に江戸の兄の店へ修業に出した。商いを覚えさせると同時に、江戸と京と大坂の商いの動きを知るためでもあった。準備を整えて機を待ったこの長い年月は、のちの成功とあわせてよく語られる。
1673年、長兄の俊次が死んだ。この年、52歳の高利は江戸の本町一丁目に自分の越後屋を開き、京都には仕入れの店を置いた。西陣などの産地から直に品を買い付け、問屋を通さない。それが値を下げる元手になった。
当時の呉服屋の商いは、手代が武家や豪商の屋敷へ反物を持って出向く「見世物商い」や、注文を受けて品を届ける「屋敷売り」が中心だった。代金は盆と暮れの年2回、あるいは年1回のつけ払いで、貸し倒れや金利のぶんを見込んで値段は高かった。高利はこれをひっくり返した。店先で、誰にでも、現金で、決まった値で売る。値引きの駆け引きもしない。これが「現金掛け値なし」である(現金掛け値なし)。さらに、反物を一反ずつではなく客の欲しい分だけ切って売り、急ぎの客にはその場で仕立てまでした。
江戸の町人たちは喜んだ。同業者は反発し、越後屋は嫌がらせを受けたと伝えられる。1683年、店は駿河町へ移り、商いはいっそう大きくなった。品目ごとに担当の手代を置き、帳簿と金の出し入れの係を分けるなど、店の中の分業も進めた。雨の日には店の名を大きく書いた傘を客に貸し、それが町を歩く宣伝になったという話も伝わっている。井原西鶴は元禄文化を代表する浮世草子『日本永代蔵』で、この店の繁盛ぶりを描いた。

同じ1683年、高利は両替商も開いた。1691年には幕府の御用を引き受け、大坂で集めた年貢米の代金などの公金を江戸へ送る為替を扱うようになる。現金を運ぶ代わりに手形で決済し、そのあいだ一定の日数、預かった金を利子なしで動かすことができた。事実上の大きな運転資金であり、何より幕府の御用を務めているという信用が、商いを支えた。
高利は1694年に死んだ。73歳だった。死に臨んで、財産を子どもたちに分けてはならないと言い残したと伝えられる。その意思を受けて、1710年、一族のすべての店と財産をまとめて管理する「大元方」(おおもとかた)が作られた。各家は持ち分に応じて分け前を受け取り、日々の経営は力のある番頭たちに任せる。1722年には、長男の高平(宗竺)が家の掟をまとめた「宗竺遺書」を定めた。奢りを戒め、大名に深入りして金を貸しすぎるな、という趣旨の教えも含まれていた。大名貸しが返らずに潰れた商家を、彼らは見てきたのである。
この仕組みのおかげで、三井は分家に財産が散らずに、代を重ねても一つの事業として続いた。幕末には幕府と新政府の双方に金を出し、番頭の三野村利左衛門の判断もあって、明治の新政府と深く結びついた。1876年に三井銀行と三井物産が生まれ、のちに呉服店は三越となって、1904年に日本で初めてデパートメントストアをめざすと宣言した。第二次世界大戦後の財閥解体を経ても、三井の名は残った。
駿河町は、いまの東京・日本橋室町である。そこには三越の本店と三井本館が並んでいる。歌川広重は『名所江戸百景』で駿河町を描いた。通りの正面に富士山がそびえ、両側に越後屋の店が軒を連ねている。江戸幕府の成立が開かれて70年、町人の都に育ちつつあった江戸で、高利は武家ではなく町の人々を客に選んだ。その選択が、300年続く商家の始まりになった。