概要
後朱雀の子。母は三条の娘禎子内親王。藤原を母としない天皇は宇多以来170年ぶり。皇太子を25年。頼通が退いて即位した。荘園整理、枡、大江匡房。4年で白河に譲り、院政を始めるつもりで、翌年死んだ。39歳。
関わったできごと(1)
延久の荘園整理令AD1069年(延久元年) · 天皇本文
後朱雀天皇の第二皇子。母は三条天皇の娘、禎子内親王(陽明門院)。藤原氏の娘でない母。宇多天皇以来、170年ぶり。
1045年、12歳で皇太子。兄の後冷泉が天皇で、頼通は自分の娘の皇子が生まれれば皇太子を替えるつもりだった。生まれなかった。25年待った。頼通は東宮の後三条に、皇太子の印である壺切の剣を渡さなかった。「藤原氏の娘が産んだ皇子に渡すものだ」と。後三条は大江匡房に学問を習い、待った。
1068年、後冷泉が死んだ。34歳で即位。頼通は宇治へ。
延久の荘園整理令。記録荘園券契所。宣旨枡。大江匡房。絹の価格の統一(估価法)。1072年、白河に譲位した。皇太子は白河の弟の実仁親王(後三条の第二皇子、母は源基子)にして、白河の系統でなく自分の系統を残そうとした。院として政治を続けるつもりだったと考えられる。翌1073年5月、病気で死んだ。40歳。
白河は父の意図を無視して、実仁が死ぬと自分の子の堀河を天皇にして、1086年に院政を始めた。父が考えたことを、子が自分の形でやった。