人物

後三条天皇

Emperor Go-Sanjō
AD1034年9月3日 – AD1073年6月15日(享年38)
平安時代重要度 4

概要

後朱雀の子。母は三条の娘禎子内親王。藤原を母としない天皇は宇多以来170年ぶり。皇太子を25年。頼通が退いて即位した。荘園整理、枡、大江匡房。4年で白河に譲り、院政を始めるつもりで、翌年死んだ。数え40歳。

関わったできごと(1)

延久の荘園整理令AD1069年(延久元年) · 天皇

本文

1034年、後朱雀天皇の第二皇子として生まれた。名は尊仁。母は三条天皇の娘、禎子内親王である。この一点が、彼の生涯を決めた。

後三条天皇の肖像
後三条天皇の肖像Wikimedia Commons 石本秋園 (Ishimoto Shūen) · Public domain

当時の朝廷は、藤原道長が築いた摂関政治の時代にあった(摂関政治の頂点)。藤原氏は娘を天皇の后にし、生まれた皇子を天皇に立てて、その外祖父や伯父として政治を握った。後一条、後朱雀、後冷泉と、天皇の母はみな道長の娘だった。ところが尊仁親王の母は皇女であり、藤原氏の娘ではない。母方の祖父の三条天皇は、道長と対立して位を退かされた人だった。藤原氏にとって、この皇子は外戚の力が及ばない存在だった。

1045年、父の後朱雀天皇は病に倒れ、位を長男の後冷泉天皇に譲った。そのとき、12歳の尊仁親王を皇太子に立てた。後朱雀は死の床で強くこれを望んだとされ、関白藤原頼通は気が進まなかったが、反対しきれなかった。頼通の異母弟の能信が強く後押ししたとも伝えられる。

後三条天皇、浮世絵
後三条天皇、浮世絵Wikimedia Commons Yashima Gakutei, poem by Kôkôji Iemori · Public domain

それから23年、彼は皇太子のまま待つことになる。頼通は自分の娘寛子を後冷泉天皇の后にし、弟の教通も娘を入れた。どちらかに皇子が生まれれば、皇太子はその子に替えられるだろう。誰もがそう思っていた。皇太子の位の印として代々受け継がれてきた壺切の剣を、頼通は、藤原氏の娘が産んだ皇太子に伝えるものだとして、尊仁親王に渡さなかったと伝えられる。

不安定な立場の中で、彼は学問に打ち込んだ。師となったのは、学者の家に生まれた大江匡房である。漢籍と政治の学問を学び、天皇になったら何をすべきかを考え続けた。地方では、国司と荘園の領主が税をめぐって争い、国の財政は細っていた。都の政治は前例と儀式に追われ、変化に応えられていなかった。

大炊御門万里小路殿址、源高房、後三条天皇はこの地で崩御、京都府京都市中京区富小路通夷川上る西側。
大炊御門万里小路殿址、源高房、後三条天皇はこの地で崩御、京都府京都市中京区富小路通夷川上る西側。Wikimedia Commons mariemon · CC BY 3.0

1068年、後冷泉天皇が皇子を残さずに死んだ。皇太子は数え35歳で即位した。後三条天皇である。藤原氏を外戚としない天皇の即位は、宇多天皇以来、およそ170年ぶりのことだった。頼通はその前年に関白を辞して宇治に退き、弟の教通が関白になっていたが、天皇は教通に遠慮せず、自ら政治を動かした。村上天皇の流れをくむ源氏の源師房らを重く用い、大江匡房を側近に置いた。

最初に手をつけたのは、荘園だった。即位の翌年の1069年、延久の荘園整理令を出した(延久の荘園整理令)。1045年以降に新しくできた荘園と、それ以前でも証拠の書類がはっきりしない荘園を停止する、という命令である。荘園の整理令はそれまでも何度も出されていたが、ほとんど効き目が無かった。後三条天皇は、太政官の中に記録荘園券契所という役所を新しく置き、荘園の領主に証拠の書類を出させて、役人が一つ一つ審査した。対象には摂関家の荘園も含まれていた。

鎌倉時代の歴史書『愚管抄』は、このときの頼通の応対を伝えている。頼通は、自分の荘園は長年人々が寄進してきたものを受け取っただけで、証拠の書類などない、不都合があれば遠慮なく停止してほしい、と答えた。あまりに堂々とした答えに、天皇はかえって手を出せず、頼通の荘園は整理の対象から外されたという。それでも、石清水八幡宮の荘園などでは実際に多くが停止されており、整理令は一定の成果を上げた。

度量衡にも手をつけた。1072年、穀物を量る枡の大きさを定めた。宣旨枡と呼ばれるこの枡は、その後、太閤検地で京枡が定められるまで、長く基準として使われた。同じ年、市場で取引される品物の公定の値段を定める法も出している。世の人々は、この時代の政治を「延久の善政」と呼んだ。

天皇は質素で、自分を厳しく律する人だったと伝えられる。摂関家の権勢におもねらず、筋の通らないことは受け入れなかった。

1072年12月、在位わずか4年あまりで、皇太子の白河天皇に位を譲った。白河天皇の母は藤原氏の傍流の出だった。そして新しい皇太子には、白河の異母弟で、源基子が産んだ2歳の実仁親王を立てた。自分の後は白河、その後は実仁へ。摂関家とは縁の遠い皇子に皇統を伝えたいという意図があったと考えられる。

なぜこれほど早く位を譲ったのかについては、説が分かれる。退位した上皇として政治を後ろから動かす、のちの院政のような形を考えていたのだという見方がある。『愚管抄』もそうした意図を伝えている。一方で、すでに病が重く、皇位の継承を確かにしておくためだったとする見方も有力である。いずれにせよ、確かめる時間は残されていなかった。退位の翌1073年5月、病のため死んだ。数え40歳だった。

父の思い描いた筋書きは、そのとおりには進まなかった。白河天皇は、1085年に実仁親王が疱瘡で亡くなると、もう一人の異母弟を退け、翌1086年、自分の8歳の子を天皇に立てた。堀河天皇である。そして自らは上皇として政治の実権を握り続けた。院政の始まりである(院政の開始)。後三条が摂関家から取り戻した天皇家の主導権は、息子の手で、父とは違うかたちで使われることになった。摂関政治の時代は彼の即位で終わりに向かい、院政と武士の時代へと移っていく。

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