できごと

江戸の再生の仕組み

Recycling in Edo
AD1800年頃
重要度 4
ロシア帝国清スペイン帝国ラタナコーシン朝(シャム)ビルマ日本大越大越朝鮮王朝フィリピンカンボジアアイヌモシリAD1800年頃江戸
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1800年頃の版図を描いています(12勢力)。

概要

人口100万の都市が、ごみをほとんど出さなかった。専門の買い手がいたからである。紙屑買いが古紙を集めて漉き返す。灰買いが竈の灰を買い、肥料と洗剤と染色に回す。古着屋、鋳掛屋、瀬戸物の焼き接ぎ、樽と桶の箍の直し。そして下肥。人の糞尿を、近郊の農家が買い取り、野菜にして市中へ戻した。値段が付き、盗まれる事件が起き、権利が売買された。捨てるものに値段が付けば、誰かが拾う。それだけの仕組みである。

場所

江戸
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)

本文

18世紀から19世紀の江戸は、人口およそ100万人を抱える、世界でも最大級の都市だった。同じころのロンドンやパリと肩を並べ、あるいはそれを上回る大きさである。その半分ほどは、参勤交代の制度化で国元から集まった武士とその家来たちだったともいわれる。そしてその周りは、田畑の広がる農村に囲まれていた。この巨大な都市は、ごみをあまり出さなかったといわれる。理由は単純である。捨てるものに値段が付けば、誰かが拾う。江戸には、そうしたものを買い集める専門の職が数多くあった。

まず紙である。当時、紙は高価だった。紙屑買いが家々を回って古紙を買い、紙屑問屋が選り分けて、漉き返しの職人へ回した。漉き返した紙は、灰色がかった粗いもので、浅草紙と呼ばれた。浅草や隅田川沿いで作られたことからの名で、落とし紙や包み紙に使われた。紙を大事にする暮らしはほかにも及び、手紙の裏に次の手紙を書き、書き損じは子どもの手習い(寺子屋)に使い、最後は襖の下張りにした。古い建物の襖をはがすと、下張りから当時の帳簿や手紙がまとまって出てくることがあり、いまでは歴史の史料になっている。

寺子屋に関わる図版:Bungaku-Bandai no-Takara-Terakoya-School-by-Issunshi-Hanasato
寺子屋Wikimedia Commons Issunshi Hanasato · Public domain

灰も売れた。灰買いが家々の竈や囲炉裏から出る灰を買い集めた。灰は肥料になり、とくに桑や藍、煙草の畑に効いた。水に溶かした灰汁は油汚れを落とす洗剤になり、藍染めには欠かせない材料だった。酒造りや和紙作り、焼き物の釉薬にも使われた。灰を扱う問屋があり、同業者の組合があり、幕府が税をかけるほどの大きな商いだった。

最も規模が大きかったのは、下肥である。人の糞尿を、近郊の農家が買い取った。船や大八車で村へ運んで畑にまき、育った野菜をまた江戸で売る。下肥には値段が付いていて、食べ物が良いからと武家屋敷のものは高く、長屋のものは安かった。長屋の下肥を売る権利は家主のもので、家賃とは別の大事な収入になっていた。その権利は売り買いされ、夜中に他人の長屋の便所から汲み取っていく盗みまで起きた。値段をめぐる争いも絶えず、18世紀の末には、江戸周辺の千を超える村々が下肥の値下げを求めて訴え出たこともある。

直す職人も町にあふれていた。鍋や釜の穴を金属を溶かしてふさぐ鋳掛屋。割れた瀬戸物を接ぎ合わせる焼き接ぎ屋。桶や樽の箍を締め直す箍屋。雪駄や下駄の底や歯を替える職人。古い傘の骨を買って紙を張り直して売る者、提灯を張り替える者、煙管の竹の管を取り替える羅宇屋、曇った銅の鏡を磨く鏡研ぎ、刃物の研ぎ屋。燃え残った蝋燭を集めて溶かし、新しい蝋燭に作り直す者もいれば、抜けた髪の毛を買い集めて付け毛にする者もいた。

着るものの多くも古着だった。新しい反物は高く、庶民の着物の大半は古着屋で買うものだった。神田の柳原の土手や日本橋の富沢町には古着屋が集まり、大きな市場ができていた。着物は何度も持ち主を替え、擦り切れればおむつや雑巾になり、最後は裂いて紐にされた。道に落ちた紙や物を拾って売る人々もいた。

もっとも、江戸にごみがまったく出なかったわけではない。どうしても売れないごみや、火事の焼け跡から出る瓦礫は大量にあった。17世紀の半ば、町奉行はごみを川や空き地に勝手に捨てることを禁じ、隅田川の河口の永代島などに運んで捨てるよう定めた。運び込まれたごみはやがて埋め立てに使われ、新しい土地になった。物を回す仕組みと、回りきらないものを埋める仕組みが、並んで動いていたのである。

なぜこの仕組みが成り立ったのか。第一に、物が高かった。人の手間に比べて材料が高いので、直して使うほうが安くついた。現代はその逆で、材料が安く人の手間が高いので、直すより買い替えるほうが安い。この比率が、物を回す仕組みが成り立つかどうかを決める。第二に、都市と農村が近かった。下肥を運ぶには、使う畑がそばにある必要がある。第三に、人が密集していたので、集める手間が少なくて済んだ。そして、海外から安い材料が大量に入ってこなかったので、国の中で回すしかなかった。

この仕組みは、しばしば環境に優しい循環型社会の手本として称えられる。ただし、注意も要る。人々は理念からではなく、そうするほうが得だったからそうしていた。衛生の水準も高くはなかった。下肥を使う農業では回虫などの寄生虫が広がり、戦後の1950年前後でさえ、日本人の多くが寄生虫を持っていたとされる。学校での検便や虫下しの配布は、その名残である。コレラや赤痢の流行も繰り返された。そして、江戸の人々が一年に使う物の量は、現代人と比べものにならないほど少なかった。同じ仕組みで、いまの都市を回せるわけではない。

明治以降、この仕組みはしだいに消えていった。化学肥料が入ると下肥の値は下がり、やがて汲み取ってもらうのに金を払う側になった。下水道が整うと、下肥はほとんど使われなくなった。かつて売れたものが、処理の費用を払って捨てるものに変わったのである。紙や布や金属が安くなると、直す職人も成り立たなくなり、やがてプラスチックの時代が来た。

言葉は残った。「もったいない」は、もとは仏教に由来する言葉で、物の本来の値打ちが失われることを惜しむ気持ちを表す。2005年、ケニアの環境活動家で、ノーベル平和賞を受けたワンガリ・マータイが、この言葉を国連の場で紹介し、減らす、繰り返し使う、再び資源にするという考えに、物への敬意を加えた言葉が日本にある、と語った。江戸の町を回していた損得の計算は、いまでは一つの心がけの言葉として、世界へ届いている。

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