できごと

最澄と空海の入唐

Saichō and Kūkai travel to Tang China
AD804年
重要度 4
カリフ国(正統・ウマイヤ・アッバース)古シベリアの狩猟採集民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民唐ツングース系の人びとウイグル可汗国吐蕃マレー系の人びとヒンドゥーの諸国渤海ラージプートの諸氏族と小国プラティーハーラ朝バシキールラーシュトラクータ朝パーラ朝南詔南詔と大理日本真臘クメール帝国アイヌヒンドゥーと仏教の小国群新羅チャーハマーナ朝パッラヴァ朝ピュー(驃)の諸都市モンの諸国Vallabhiチャンパドヴァーラヴァティーシンハラの諸王国AD804年長安
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD804年の版図を描いています(31勢力)。

概要

同じ船団で渡り、別のものを持ち帰った。最澄は天台、空海は密教。以後の日本の仏教は、ほとんどこの二人の系統から分かれる。

場所

長安
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安

関わった人(2)

最澄AD767年–AD822年 · 渡唐空海AD774年–AD835年 · 渡唐

本文

794年、桓武天皇は都を平安京に移した(平安京遷都)。奈良の都では、大寺院の僧たちが政治に深く入り込み、朝廷を悩ませていた。新しい都に、古い寺は移さなかった。桓武天皇が求めたのは、学問と修行に打ち込む新しい仏教だった。

そのころ、比叡山にこもって修行する一人の僧がいた。最澄。767年ごろ近江に生まれ、19歳で東大寺で正式な僧となる資格を得たが、すぐに都を離れて比叡山に草庵を結んだ。そこで中国の天台宗の書物を読み込み、あらゆる人が仏になれると説く『法華経』を中心とした天台の教えに心を寄せた。やがて天皇の信頼を得て、宮中に仕える僧に選ばれる。最澄は、天台の教えを本場で確かめ、正しく伝えたいと願い出た。

最澄の肖像(一乗寺蔵、平安時代)
最澄の肖像(一乗寺蔵、平安時代)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

同じころ、もう一人の若者がいた。空海。774年に讃岐の豪族の家に生まれ、都の大学で官吏になるための学問を学んだが、途中でやめて山林での修行に入った。四国の山や海辺の洞窟で修行を重ねたと、自らの著作に書いている。国の正式な僧の身分を得たのは、唐へ渡る直前のことだったとされる。名もない修行者だった。

804年、遣唐使の船が四隻、九州の肥前から出航した。大使は藤原葛野麻呂。最澄は第二船に乗った。天皇の後ろ盾を持つ名の知られた僧として、短い期間で学んで帰る還学生という立場で、通訳の弟子を連れていた。空海は大使とともに第一船に乗った。20年間の留学が定められた留学僧としてだった。

最澄像(能福寺)
最澄像(能福寺)Wikimedia Commons 日: Jnn · CC BY 2.1 jp

東シナ海は荒れた。第三船は引き返し、第四船は行方が分からなくなった。最澄の第二船は、2か月ほどで唐の明州(いまの寧波)にたどり着く。空海の第一船は嵐で大きく南へ流され、いまの福建の海岸に漂着した。地方の役人は、正式な国書の無い一行を怪しんで、上陸を許さなかった。大使の書いた文書では埒が明かず、空海が代わって大使の名で書状を書くと、その見事な文章と筆跡に役人は驚き、ようやく一行を受け入れたと伝えられる。一行が長安に着いたのは、その年の暮れだった。

最澄は、明州から天台山へ向かった。天台宗の開祖、智顗ゆかりの山である。そこで天台の高僧たちから教えを受け、経典を書き写し、大乗の菩薩の戒を授かった。帰りの船を待つあいだに越州で、密教の灌頂も受けている。禅の教えも学んだ。天台、密教、禅、戒律。最澄は幅広く学び、それらを一つにまとめることを目指していた。805年、最澄は遣唐使の帰りの船で日本へ戻った。滞在は1年に満たなかった。

『伝教大師入唐牒』のうち明州牒(延暦寺蔵・国宝)
『伝教大師入唐牒』のうち明州牒(延暦寺蔵・国宝)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

空海は長安にとどまった。インドから来た僧についてサンスクリットを学びながら、師を探した。805年の夏、空海は青龍寺の恵果を訪ねる。恵果は、インドから伝わった密教の正統を継ぐ、長安で最も高名な僧だった。空海の記録によれば、恵果は初めて会った空海を見て笑みを浮かべ、あなたが来るのをずっと待っていた、と言ったという。

それから3か月ほどのうちに、恵果は空海に、密教の二つの体系、胎蔵と金剛界の灌頂を授け、さらに師の位を継ぐための灌頂を授けた。経典、曼荼羅、法具を作らせて空海に託し、早く日本へ帰って教えを広めよ、と言い残した。その年の暮れ、恵果は亡くなる。数多くの弟子の中から選ばれて、その碑文を書いたのは空海だった。

『伝教大師請来目録(越州録)』(延暦寺蔵・最澄直筆・国宝)
『伝教大師請来目録(越州録)』(延暦寺蔵・最澄直筆・国宝)Wikimedia Commons Saichō · Public domain

806年、空海は、別の遣唐使の帰りの船に便乗して日本へ戻った。20年の約束を、2年で切り上げたことになる。持ち帰った品々の目録を朝廷に差し出したが、すぐには都に入ることを許されず、数年を九州で過ごした。809年、新たに即位した嵯峨天皇のもとで、ようやく京に入る。

一方、先に帰った最澄は、天台宗を開くことを朝廷に認められていた。ただ、桓武天皇が強い関心を寄せたのは、最澄が唐で少し学んだ密教のほうだった。最澄は、自分の学んだ密教が不十分だと自覚していた。そこで、年下で、正式な師から全体を授かってきた空海に、頭を下げて教えを請うた。最澄は空海から経典を何度も借りて書き写し、812年には、弟子たちとともに空海から灌頂を受けている。

『灌頂歴名』には最澄と泰範の名が見える(神護寺蔵、空海直筆の国宝)
『灌頂歴名』には最澄と泰範の名が見える(神護寺蔵、空海直筆の国宝)Wikimedia Commons Kūkai · Public domain

二人の関係は、やがて冷えていった。最澄は、密教を書物で学び、天台の教えの中に取り込もうとした。空海は、密教は師から弟子へ直接に伝えるものであり、文字を読むだけで得られるものではない、と考えた。813年、最澄が密教の経典の注釈書『理趣釈経』の貸し出しを求めると、空海は手紙で断った。また、最澄が空海のもとへ学びに送った愛弟子の泰範が、そのまま空海のもとにとどまり、比叡山へ戻らなかった。こうして二人は、別々の道を歩むことになった。

最澄は、奈良の東大寺などとは別に、比叡山で独自に大乗の戒を授けて僧を育てる戒壇を朝廷に認めさせようとし、奈良の大寺院と争い続けた。その許しが出たのは、822年に最澄が亡くなった7日後だった。空海は、816年に高野山を開き(空海の高野山開創)、のちに京の東寺を与えられて、真言宗を大きく育てた。

延暦寺法華総持院東塔
延暦寺法華総持院東塔Wikimedia Commons 663highland · CC BY 2.5

以後の日本の仏教は、ほとんどこの二人の系統から分かれていく。真言宗は空海の流れを継ぐ。そして比叡山の延暦寺は、天台の教えに密教、禅、念仏、戒律を合わせて学べる総合の学問の場となり、鎌倉時代の新しい宗派の開祖たち、法然、親鸞、道元、日蓮、栄西を育てることになった。同じ船団で唐へ渡った二人は、まったく違うものを持ち帰り、それがそれぞれに日本の仏教の背骨になった。

動画(1)

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