できごと

継体天皇の即位

Accession of Emperor Keitai
AD507年
重要度 4
古シベリアの狩猟採集民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民柔然Jin Empire北魏(拓跋魏)扶南高句麗クリカンアイヌラヴォ日本チャンパ新羅AD507年樟葉宮
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD507年の版図を描いています(13勢力)。

概要

武烈天皇に子がなく、大伴金村が越前から応神天皇の五世の孫を迎えた。58歳。樟葉宮で即位し、20年、大和に入れなかった。前の王統との断絶を疑う人がいる。『日本書紀』は辛亥の年に天皇と太子と皇子が同時に死んだ、という百済の記録を引いている。

場所

樟葉宮
34.83°N 135.68°E · 大阪府枚方市

関わった人(1)

継体天皇AD450年–AD531年 · 天皇

本文

『『日本書紀』の完成』は、継体天皇の前の武烈天皇について、妊婦の腹を裂いた、人を木に登らせて射落とした、といった悪行を並べている。中国の史書が王朝の最後の王を暴君として描くのにならった書き方とみられ、そのまま事実とは受け取られていない。確かなのは、書紀が武烈には子が無かったとしていることである。506年に武烈が死ぬと、大和の王家は跡継ぎを失った。

書紀によれば、大連の大伴金村は、まず仲哀天皇の五世の孫という倭彦王を丹波に迎えに行った。ところが倭彦王は、迎えの兵の列を見て恐れ、山に逃げて姿を消してしまう。金村たちが次に選んだのが、越前の三国にいた応神天皇の五世の孫、男大迹王だった。男大迹王もすぐには信用せず、知り合いの河内馬飼首荒籠がひそかに使いを送り、迎えが本物であることを伝えて、ようやく腰を上げたという。

天皇系図 15~26代
天皇系図 15~26代Wikimedia Commons nnh · CC BY 2.5

507年2月、男大迹王は河内の樟葉宮で即位した。淀川のほとり、いまの大阪府枚方市のあたりである。書紀は即位のときの年齢を58歳とする。継体天皇は、仁賢天皇の娘で武烈の姉にあたる手白香皇女を皇后に迎えた。前の王家の娘をめとることで、血筋のつながりを補ったものとみられる。

ところが継体は、すぐには大和に入らなかった。511年に山城の筒城宮、518年に同じく山城の弟国宮へ移り、大和の磐余玉穂宮に入ったのは、即位から20年目の526年とされる。大和の豪族の中に新しい王を拒む勢力があったためだという見方がある一方、淀川や木津川の水運を押さえる場所をあえて選んだのだという見方もある。翌527年には、北九州の筑紫君磐井が新羅と結んで背き(磐井の乱)、継体の朝廷は物部麁鹿火を送ってこれを平らげた。

天皇系図 26~37代
天皇系図 26~37代Wikimedia Commons nnh · CC BY 2.5

継体の死にも謎がある。書紀は531年に82歳で死んだとしつつ、「ある本」では534年だと注記している。そのうえで書紀は、百済の記録『百済本記』を引いて、辛亥の年(531年)に日本の天皇と太子と皇子がそろって死んだと伝える。これをもとに、継体の死の後に政変が起き、継体の子の安閑・宣化の朝廷と、手白香皇女の産んだ欽明天皇の朝廷が一時並び立ったのではないか、とする説がある。証拠は乏しく、確かめられてはいない。

和歌山県の隅田八幡神社に伝わる銅の鏡には、癸未の年に「男弟王」が「意柴沙加宮」にいたとき、この鏡を作らせた、と読める銘がある。癸未を503年とみて、男弟王を即位前の継体(男大迹)、意柴沙加宮を大和の忍坂の宮とする説があり、継体が即位の前から大和の王家と深い関わりを持っていた証拠だと考える人もいる。ただ、銘の読み方にも年代にも別の解釈があり、定まってはいない。

稲荷山古墳 (高島市)の全天球画像(360°インタラクティブパノラマで見る)
稲荷山古墳 (高島市)の全天球画像(360°インタラクティブパノラマで見る)Wikimedia Commons AsPJT · CC0

「応神天皇の五世の孫」という出自も、昔から疑われてきた。書紀は途中の代の名を記さない。ただ、鎌倉時代の注釈書に引かれて残った『上宮記』の逸文に、応神から継体までの系譜が具体的に書かれている。父は近江の彦主人王、母は越前の振媛で、近江と越前に地盤を持つ豪族の血筋だったことはうかがえる。一方、戦後まもなく水野祐が唱えた王朝交替説では、継体は大和の王家とは血のつながらない地方の豪族で、王位を実力で手に入れた新しい王朝の始まりだとされた。応神の血を引くとする書紀の書き方を後からの飾りとみるか、遠い傍系の王族が本当に迎えられたとみるか、いまも結論は出ていない。ただ、実在と系譜がかなり確かにたどれる最初の天皇を継体とみる考え方は、広く共有されている。

大阪府高槻市の今城塚古墳は、6世紀前半に築かれた長さ190メートル前後の前方後円墳で、多くの研究者が継体の本当の墓だと考えている。宮内庁が継体の陵に定めているのは近くの太田茶臼山古墳だが、こちらは5世紀中ごろの築造とみられ、継体の時代と合わない。陵墓に指定されていないおかげで、今城塚は発掘されて、家や武人や動物をかたどった200点を超える埴輪の並んだ祭りの場が見つかった。いまは公園として整えられ、誰でも墳丘を歩くことができる。天皇の墓と考えられる古墳としては、ほかに例の少ない場所である。

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