欽明天皇
概要
継体天皇の子。蘇我稲目の二人の娘を妃にし、そこから用明、推古、崇峻が生まれた。仏教が来た天皇。百済の聖明王と組み、新羅に任那を取られた。「任那を復興せよ」と遺言した。天皇の実在が確かなのは、この人あたりから。
関わったできごと(1)
仏教の日本伝来AD538年(552年説もある) · 天皇本文
欽明天皇は、6世紀の倭の大王である。和風の諡は天国排開広庭。父は越前から迎えられて即位した継体天皇、母は先の王統の血を引く手白香皇女だった。新しく入った継体の血と、それまでの大王家の血の両方を受け継いだ子であり、そのことが彼の即位を支えたと考えられている(継体の即位については継体天皇の即位)。

即位の年ははっきりしない。『日本書紀』は、継体の死後に兄の安閑、宣化が順に立ち、539年の末に欽明が即位したと書く。ところが、聖徳太子の伝記である『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』は、仏教が伝わった戊午の年(538年)を欽明の治世の年としている。そうなると即位は531年か532年まで遡る。『日本書紀』が引く百済の記録には、531年に倭の天皇と太子・皇子がそろって死んだという謎めいた一文もある。ここから、継体の死後に何らかの政変があり、安閑・宣化の朝廷と欽明の朝廷が一時並び立ったのではないかという説が唱えられてきた。ただし決め手はなく、今も議論が続いている。
宮は磯城嶋の金刺宮。皇后には宣化天皇の娘の石姫を立て、その子が次の敏達天皇になる。そしてもう一つ、後の歴史を大きく動かす結婚をした。新しく台頭した豪族の蘇我稲目の娘、堅塩媛と小姉君の姉妹を妃に迎えたのである。堅塩媛からは用明天皇と推古天皇が、小姉君からは崇峻天皇や、聖徳太子の母となる穴穂部間人皇女が生まれた。聖徳太子は、父方からも母方からも欽明の孫にあたる。こうして蘇我氏は大王家の外戚となり、その後百年近く朝廷の中心に座ることになった。

仏教が公に伝わったのは、この天皇の時代である(仏教の日本伝来)。百済の聖明王が使者を送り、金銅の釈迦仏の像と幡や天蓋、経典を献じた。『日本書紀』はその年を552年とするが、先の二つの史料に従って538年とする説が有力である。552年は、仏の教えが衰える末法の世が始まる年とする数え方があり、書紀の編者がそれに合わせたのではないかとも言われる。
書紀によれば、天皇は献上された像を見て喜び、これほど微妙な教えは聞いたことがないと言ったが、自分では拝むかどうかを決めず、群臣に諮った。稲目は、西の国々はみな礼拝しているのに倭だけが背くわけにはいかない、と勧めた。物部尾輿と中臣鎌子は、わが国の王は天地の多くの神々を四季に祀ってきたのに、外国の神を拝めば国の神の怒りを招く、と反対した。天皇は、試みに稲目に拝ませてみよと像を稲目に預けた。その後、疫病がはやると、反対派はこれを外国の神のせいだとし、像を難波の堀江に流し、寺を焼いたという。
もっとも、書紀が載せる聖明王の上表文には、8世紀の初めに漢訳された経典の文句が使われていて、そのままの記録ではないことが分かっている。天皇の慎重な態度も、書紀の編者が描いた姿と見るべきだろう。それでも、受け入れをめぐって蘇我と物部が対立したという筋は、のちの蘇我氏と物部氏の戦いにつながっていく。

聖明王が仏教を送ったのは、外交の一手でもあった。百済は北の高句麗と東の新羅に挟まれ、倭に兵を求めていた。朝鮮半島の南には伽耶(倭は「任那」と呼んだ)の小国群があり、倭はここと古くから鉄や人の往来で結びついていた。だが伽耶の国々は次々に新羅に取り込まれ、532年に金官国が、562年には大加耶が新羅に降った。その間の554年、聖明王は新羅との戦いで討たれている。
571年、欽明は病に伏し、皇太子に、新羅を討って任那を建て直せと遺言した、と書紀は伝える。この遺言はその後の大王たちに引き継がれ、推古の時代まで何度も出兵が計画された。

陵は檜隈坂合陵とされる。宮内庁は明日香村の平田梅山古墳をこれに当てているが、橿原市の見瀬丸山古墳を欽明陵と見る研究者が多い。全長約310メートル、奈良県で最大の前方後円墳で、内部の巨大な横穴式石室には二つの石棺が置かれている。
欽明の時代の記事は、『日本書紀』の完成にあたって百済の記録を多く取り込んで書かれ、それ以前の巻に比べて具体的になる。大王の系譜と事績がおおむね信用できるようになるのは、このあたりからだと考えられている。仏教を迎え、蘇我の血を大王家に入れ、半島の足場を失った。その三つが、次の飛鳥の時代の出発点になった。