飛脚
概要
江戸と大坂を、二人一組で走り継ぐ。継飛脚は幕府の公用で、東海道を三日から四日で走った。町飛脚は民間で、定期便を出し、書状も金銀も荷も運んだ。大坂の商人が仕立てた三度飛脚は、月に三度、定日に発した。為替と手形も、この網に乗った。江戸の相場を大坂へ、大坂の米相場を江戸へ。堂島の米相場は、旗振り通信という別の手段でも、飛脚よりはるかに速く送られた。
場所
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)
本文
江戸幕府は、天下を取るとすぐに、江戸を起点とする大きな道の整備にとりかかった。東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道の五つの道である(五街道と宿場)。道沿いには一定の間隔で宿場が置かれ、東海道には53、中山道には69の宿場が並んだ。宿場は、公用の荷物や手紙を次の宿場まで運ぶための馬と人足を常に用意しておく義務を負った。東海道の宿場ではそれぞれ人足100人、馬100頭が定めだった。重い負担であると同時に、宿場町として栄える権利でもあった。
この道の上を、手紙や荷物を運んで走ったのが飛脚である。飛脚には大きく分けて三つの種類があった。一つ目は、幕府の公用の文書を運ぶ継飛脚である。宿場ごとに待機する飛脚が、二人一組で書状を受け取り、次の宿場まで走って引き継ぐ。江戸と京都を結ぶ東海道のおよそ500キロを、ふつうは3日から4日ほどで運んだ。幕府の御用であることを示す箱を担いだ飛脚は、宿場でも渡し場でも最優先で通された。

二つ目は、大名が自分の領地と江戸の屋敷を結ぶために抱えた大名飛脚である。参勤交代の制度化で大名は江戸と国元を行き来し、妻子は江戸に住まわされたから、両方の間では絶えず連絡が要った。尾張藩や紀州藩は、街道におよそ七里(約27キロ)ごとに中継の小屋を置いて専用の飛脚を走らせ、「七里飛脚」と呼ばれた。
三つ目が、民間の町飛脚である。これが最も広く使われた。1663年(寛文3年)、大坂の商人たちが江戸との間に定期の飛脚便を始めたのが始まりとされる。月に三度、決まった日に出発したことから「三度飛脚」の名で呼ばれたという。やがて便数は増え、大坂、京都、江戸のそれぞれに飛脚問屋ができて互いに結ばれた。江戸の飛脚問屋は、18世紀の後半には幕府から株仲間として公認されている。

町飛脚が運んだのは、書状だけではない。荷物も、金銀も運んだ。そして何より大切だったのが、手形である。大坂は全国の米や綿や油が集まって値が決まる商いの都であり、江戸は100万人ともいわれる人々が暮らす大消費都市だった。この二つの町の間では、膨大な金の支払いが行き来した。
その支払いを、現金を運ばずに済ませる仕組みがあった。大坂の両替商が振り出した手形を飛脚が江戸へ運び、江戸の両替商がそれと引き換えに金を払う。逆向きの支払いと帳簿の上で相殺すれば、重い金銀を街道で運ぶ必要はない。運べば盗まれる危険もある。三井高利の三井家は、江戸の呉服店で集まった売上金を、幕府が大坂から江戸へ送る公金と帳簿の上で付け替える仕組みを引き受け、大きな利益と信用を得た。中世ヨーロッパの為替手形と同じ原理が、飛脚の網の上で働いていた。

飛脚の料金は、距離と重さ、そして速さで決まった。急ぐほど高い。何日以内に必ず届けるという日限を付けた便があり、最も速い便は、ふつうの便の何倍もの料金がかかった。商人にとっては、それだけ払っても早く知る価値のある知らせがあったのである。
その代表が、米の値段だった。1730年、幕府は大坂の堂島で米の取引所を公認した(堂島の米市場)。ここでは、実物の米をやりとりせず、期日までの値動きの差額だけで決済する取引が行われていた。証拠金を積み、期限を決めて売り買いする、近代の先物取引の要素をほぼ備えた市場で、世界で最も早い組織的な先物市場の一つとされる。堂島で決まる米の値が、全国の米の値の基準になった。

その値を少しでも早く知りたい商人たちは、飛脚より速い方法を編み出した。旗振り通信である。見晴らしのよい山の上に人を立て、大きな旗を決まった振り方で振って数字を伝える。次の山にいる者が遠眼鏡でそれを読み取り、また旗を振る。こうして大坂の相場は、京都や大津、西は岡山や広島の方へと伝えられた。大坂から京都までは数分で届いたといわれ、江戸まで数時間で伝わったという記録もあるが、その道筋や所要時間には諸説がある。各地に残る「旗振山」「相場振山」といった山の名が、その名残である。
旗振り通信は米の仲買人たちが私的に作った網で、幕府は相場の操作につながるとしてたびたび禁じたが、止むことはなかった。他人より早く値を知ることに、それだけの価値があったからである。明治に入っても旗振りは続き、電信や電話が行き渡った明治の末から大正の初めにかけて、ようやく姿を消した。
明治の新しい政府は、国の手で郵便を始めた。1871年(明治4年)、前島密の建議によって、東京と大阪の間で官営の郵便が始まる。前島はイギリスのペニー・ブラックと郵便改革に始まる郵便の改革を学び、全国どこでも同じ料金、前払い、切手という仕組みを取り入れた。手紙は国が運ぶものになり、飛脚問屋は大きな打撃を受けた。
前島は、飛脚問屋をただ締め出したわけではなかった。手紙は国が運ぶ代わりに、飛脚問屋には荷物や貨物の運送を担うよう勧めた。1872年、東京の飛脚問屋たちが中心になって陸運元会社が作られ、これがのちに内国通運、さらに日本通運へとつながっていく。江戸の飛脚の網は、形を変えて近代の運送業に引き継がれた。
いまも「飛脚」の名は、運送会社の看板や商標に残っている。宿場から宿場へ人の足で走り継いだ網は、手紙と荷物と金の流れを支え、江戸と大坂という二つの大都市を一つの経済に結びつけていた。