近江大津宮への遷都
概要
白村江に負けて4年、中大兄皇子は都を飛鳥から琵琶湖のほとりに移し、翌年即位した。唐と新羅が来るなら、海から遠い所へ。5年で壬申の乱が起き、都は飛鳥に戻る。
場所
35.02°N 135.86°E · 滋賀県
関わった人(1)
天智天皇(中大兄皇子)AD626年–AD672年1月7日 · 天皇本文
660年、朝鮮半島の百済が、唐と新羅の連合軍に攻められて滅びた(百済の滅亡)。倭国(のちの日本)は、長く結びつきのあった百済を立て直すため、大軍を海の向こうへ送る。661年、遠征を指揮するために九州へ下った斉明天皇が亡くなると、その子の中大兄皇子が、即位しないまま政治を執り続けた。中大兄は、大化の改新のきっかけとなった645年の政変から、すでに20年近く朝廷の中心にいた。そして663年、倭国と百済の遺臣の軍は、朝鮮半島の西岸で唐の水軍に大敗する(白村江の戦い)。
敗戦は、倭国の支配者たちを恐怖に陥れた。唐と新羅が勢いに乗って海を渡ってくるかもしれない。『日本書紀』によれば、翌664年、対馬と壱岐と筑紫に防人と烽(のろし台)を置き、筑紫には土塁と堀で平野を塞ぐ水城を築いた。665年には、亡命してきた百済の貴族に命じて、大宰府を守る大野城と基肄城を造らせた。667年には、大和と河内の境に高安城、瀬戸内の屋嶋城、対馬の金田城が築かれる。九州から瀬戸内を経て畿内まで、朝鮮式の山城が並んだ。

その守りの奥に、中大兄は都を移した。667年3月、都は飛鳥から、琵琶湖の南西の岸の近江大津宮へ遷された。飛鳥から北へ60キロほど、山に囲まれた湖のほとりで、瀬戸内の海からは遠い。理由については、海からの攻撃を避けるためという守りの説のほかに、琵琶湖の水運を使って北陸や東国へ通じやすいこと、近江に多く住んでいた渡来人の力を頼んだこと、飛鳥の古い豪族たちの地盤から離れて新しい政治を始めるためだったこと、などが挙げられ、一つには絞りきれない。実際、亡命した百済の人々は、この前後に数百人単位で近江に移り住まわされている。
遷都は歓迎されなかった。『日本書紀』は、世の人々は都を移すことを望まず、遠回しにいさめる者が多く、風刺の歌もたくさん歌われた、と書く。昼も夜も火事が多かった、という記事も続く。付け火だったのかもしれない。それでも中大兄は都を動かさず、翌668年1月、大津宮で即位した。これが天智天皇(中大兄皇子)である。同じ年、唐と新羅は北の高句麗も滅ぼした(高句麗の滅亡)。朝鮮半島をめぐる争いの次の局面を、倭国は湖のほとりから見守ることになる。

大津宮の数年間は、国の仕組みが大きく作られた時期でもあった。669年、長年の盟友だった中臣鎌足が亡くなり、天智は藤原の姓を贈った。670年には、日本で最初の全国の戸籍とされる庚午年籍が作られる。人々を戸ごとに書き上げ、税と兵を取り立てる土台とするためである。翌671年には、子の大友皇子を太政大臣とし、左大臣、右大臣を置いた。のちの律令の先がけとなる「近江令」が作られたとも伝えられるが、本当に法典としてまとめられたのかについては、研究者のあいだで議論が続いている。同じ671年、天智は水時計(漏刻)を新しい台に置き、鐘と太鼓で時刻を知らせ始めた。その日を太陽暦に直した6月10日が、いまの「時の記念日」である。
671年の秋、天智は重い病にかかり、弟の大海人皇子を病床に呼んで、後のことを託したいと告げた。大海人は、これは自分を試す罠ではないかと疑ったのか、辞退して、皇后に位を、大友皇子に政治を任せるよう勧め、その場で出家して吉野の山へ去った。『日本書紀』には、それを見て、虎に翼をつけて野に放ったようなものだ、と言った者がいたと記されている。12月、天智は大津宮で亡くなった。
天智の死から半年あまりのちの672年、吉野を出た大海人は東国の兵を集めて近江の朝廷を攻めた(壬申の乱)。大友皇子の軍は瀬田の橋で敗れ、皇子は自ら命を絶った。勝った大海人は飛鳥に戻って即位し、天武天皇となる。大津宮は、遷都から5年あまりで捨てられた。

捨てられた都は、すぐに荒れ果てた。それから二十年近くのち、歌人の柿本人麻呂はこの地を通り、廃墟となった都を悼む長歌を詠んだ。添えられた短歌は、志賀の唐崎は昔のままなのに、大宮人の船を待っても、もう来ることはない、と歌う。この歌は『万葉集』に収められている(『万葉集』の成立)。都の正確な場所は長く分からず、幾つもの候補地が挙げられてきたが、1974年、大津市錦織の住宅地で、宮殿の門とみられる大きな柱の穴が見つかり、ようやくここが大津宮の中心だったとされるようになった。いまは家並みの間に、発掘の跡を示す柱の位置と標識が残されている。