鑑真の来日
概要
五度の渡海に失敗し、失明してから六度目で着いた。僧が正式に僧になる手続きが、これで日本に整う。唐招提寺を開いた。
場所
34.69°N 135.79°E · 日本・奈良県
関わった人(1)
鑑真AD688年–AD763年 · 渡海本文
8世紀前半の日本には、僧の数は多かったが、正式に僧になるための手続きが整っていなかった。仏教の決まりでは、出家した者は、戒律を正しく受けた10人の僧(地方では5人)の前で戒を授かって、はじめて一人前の僧になる。日本にはその資格を持つ僧がそろっておらず、自分で誓いを立てて僧を名乗る者も多かった。僧になれば税と労役を免れるので、それを目当てに勝手に出家する者が後を絶たず、朝廷も困っていた。
733年の遣唐使に、興福寺の栄叡と大安寺の普照という二人の若い僧が加わった。戒を授けられる師を唐から招くのが役目だった。二人は10年近く唐で師を探し、742年、揚州の大明寺で律の大家として知られた鑑真に頼み込んだ。鑑真は弟子たちに、誰か行く者はいないかと尋ねた。海は危なく、生きて着ける者は少ない、と誰も答えなかった。鑑真は、法のためなら命を惜しむことはない、皆が行かないなら自分が行く、と言ったと伝わる。このとき55歳である。
ここから11年かかる。最初の試み(743年)は、同行を外された弟子の一人が、一行は海賊とつながっていると役所に訴え出たために船が没収された。2度目はその年の暮れに出たが、長江の河口で難破した。3度目と4度目は、師を手放したくない各地の弟子や寺の者が役所に訴え、栄叡が捕らえられたり、一行が連れ戻されたりして果たせなかった。748年の5度目は、出航後に嵐に遭い、長く漂流して海南島の南端に流れ着いた。そこから陸路で揚州へ戻る途中、栄叡が病で死に、普照も一行を離れた。鑑真はこの旅のなかで目を病み、治療の甲斐なく光を失ったとされる。ただし、来日後の書状から、まったく見えなかったわけではないとみる研究者もいる。
753年、藤原清河を大使とする遣唐使が帰国するとき、副使の大伴古麻呂が鑑真を自分の船にひそかに乗せた。玄宗の許しは得られず、清河は唐の役人の目を恐れていったん鑑真を下船させたが、古麻呂が独断で乗せ直したと伝わる。4隻のうち大使の船は安南(いまのベトナム)へ流されて清河は二度と日本に戻れず、鑑真の乗った第二船は12月、薩摩の秋妻屋浦(いまの南さつま市)に着いた。普照も別の船で帰り着いている。鑑真は数えで66歳だった。

翌754年2月に平城京へ入ると、朝廷は授戒をすべて鑑真に任せると告げた。4月、大仏開眼から2年後の東大寺の大仏殿の前に臨時の戒壇を築き、聖武上皇(聖武天皇)、光明皇太后(光明皇后)、孝謙天皇(孝謙天皇(称徳天皇))をはじめ400人あまりに戒を授けた。このとき、すでに自分で誓って僧になっていた者たちの一部が反発したが、議論の末に従ったという。翌年には東大寺に常設の戒壇院が建ち、のちに下野の薬師寺と筑紫の観世音寺にも戒壇が置かれて、東国と九州の僧はそこで戒を受けるようになった。
鑑真が持ってきたのは戒律だけではない。仏像、経典、仏舎利のほか、天台宗の教えを記した書物も多く運んでおり、のちに最澄はそれを読んで天台を学んだ。薬の知識にも通じ、目が見えなくなってからも匂いで薬を見分けたという話が伝わる。

759年、鑑真は朝廷から与えられた新田部親王の旧宅の地に寺を建てた。のちの唐招提寺で、僧が戒律を学ぶ場とした。763年、ここで亡くなった。76歳。死の直前に弟子の忍基が師の姿を写させたと伝わる乾漆の坐像が唐招提寺に伝わり、日本に残る最古の肖像彫刻の一つとされている。目を閉じ、静かに座っている。
鑑真の旅を詳しく伝えるのは、779年に淡海三船がまとめた『唐大和上東征伝』で、同行した弟子の思託の記録をもとにしている。昭和になって井上靖がこれを下敷きに小説『天平の甍』を書き、普照らの目から見た渡海の物語として広く読まれた。