倭国大乱
概要
『後漢書』に「桓帝と霊帝のあいだ、倭国は大いに乱れ、互いに攻めた」とある。何年も王がなく、女子を共立して王とした。それが卑弥呼だと『魏志』は続ける。列島の歴史が文字で読める最初の争い。
場所
33.33°N 130.38°E · 佐賀県
本文
日本列島の人びとの争いが、初めて文字で記録されたのは、中国の歴史書の中である。5世紀に南朝の宋で編まれた『後漢書』の東夷伝に、こうある。「桓・霊の間、倭国大いに乱れ、更々相攻伐し、歴年主なし」。後漢の桓帝と霊帝の治世、つまり西暦146年から189年のあいだに、倭の国々は大いに乱れ、互いに攻め合い、何年も王がいなかった、という意味である。
これより少し古い3世紀の陳寿の『三国志』の魏書の倭人伝(いわゆる「魏志倭人伝」、陳寿『三国志』)は、もう少し筋道を立てて書く。その国はもともと男子を王としていた。それが70年か80年続いたのち、倭国が乱れ、何年も攻め合った。そこで国々は共に一人の女子を立てて王とした。名を卑弥呼という。鬼道に仕え、よく人びとを惑わす。年はすでに長じているが夫はなく、弟が国の政治を助けている。王になってからは、彼女を見た者は少なく、千人の女の召し使いがそば近くに仕え、男がただ一人、飲食を運び、言葉を取り次いだ、と(卑弥呼)。
いつ乱れたのかについては、7世紀に編まれた『梁書』が、霊帝の光和年間(178年から184年)と書いている。この項目の年はそれによる。ただし『後漢書』も『梁書』も、魏志倭人伝などの先行する記録をもとに後から書かれたもので、年代の書き方がどこまで確かかは分からない。
乱の前の倭について、中国の記録は断片を伝える。57年、倭の奴国の王の使いが後漢の都の洛陽に来て、光武帝から印綬を授かった。江戸時代に博多湾の志賀島で掘り出された「漢委奴国王」の金印がそれにあたるとされる。107年には倭国王の帥升らが、160人の生口(奴隷か捕虜とみられる)を献じた。列島の西部には、中国の皇帝と結んで権威を得ようとする王たちが、いくつも並び立っていたことがうかがえる。乱れたのは、そうした王たちの釣り合いが崩れたためだと考えられている。
大陸の情勢も揺れていた。後漢は2世紀の後半、宦官と外戚の争いで政治が乱れ、184年には黄巾の乱が起きて、やがて群雄が割拠する時代に入る。朝鮮半島の楽浪郡を通じた中国との結びつきが弱まったことが、倭の国々の力関係を揺さぶったとみる説がある。鉄の素材を手に入れる道をめぐる争いだったとする見方もある。
考古学の側から見ると、弥生時代の後期にあたるこの時期、瀬戸内海の沿岸から近畿にかけて、見晴らしのよい山の上や丘の頂に村を作る「高地性集落」が増える。平地の水田からは遠く、暮らしには不便な場所で、のろしを上げたり、身を守ったりするための村だったと考えられている。弥生時代を通じて、集落の周りに深い濠をめぐらせる環濠集落も各地にあった。佐賀県の吉野ヶ里遺跡は二重の濠と物見やぐらを持つ大きな環濠集落で、甕棺の墓からは、首のない人骨や、矢じりの刺さった骨が見つかっている。ただし、こうした遺構の年代は幅広く、どれが『後漢書』のいう大乱にあたるのかを特定することはできない。
乱がどれほどの範囲で起きたのかも、はっきりしない。九州の北部の国々の争いとみれば、卑弥呼の邪馬台国は九州にあったことになりやすく、瀬戸内から近畿までを巻き込んだ争いとみれば、近畿の大和に邪馬台国があったという説に結びつきやすい。乱の範囲の理解が、そのまま邪馬台国の所在をめぐる論争の一部になっている。
確かなのは、争いを終わらせたのが、一人の女性を国々が「共に立てた」という方法だったことである。武力で全体を従えた王が現れたのではなく、並び立つ国々が、祭祀の力を持つ女性を上に戴くことで折り合った。卑弥呼は239年、魏に使いを送り(卑弥呼の遣使)、「親魏倭王」の称号を得る。彼女の死後、男の王が立つと国は再び乱れ、13歳の少女の壱与(台与)を立てて、ようやく治まったと倭人伝は記す。そのころ、奈良盆地の纒向では、最初の大きな前方後円墳とされる箸墓古墳が築かれはじめていた。