大化の改新
概要
蘇我氏を倒し、唐にならった中央集権を目指した。土地と人民を国のものとする方針を打ち出す。
場所
34.47°N 135.82°E · 日本・奈良県
本文
7世紀の初め、大和の朝廷で大きな力を持っていたのは、蘇我氏だった。蘇我氏は6世紀に物部氏を倒し(蘇我氏と物部氏の戦い)、仏教を後押しし、娘を天皇の后に入れて、天皇家と深く結びついた。聖徳太子が政治に加わった推古天皇の時代も、大臣の蘇我馬子が政治の中心にいた。馬子の子の蝦夷、孫の入鹿の代になると、蘇我氏の力はさらに強まった。643年、入鹿は聖徳太子の子、山背大兄王の一族を攻めて滅ぼしている。
同じころ、海の向こうでは大きな変化が起きていた。618年に唐が中国を統一し、律令という法にもとづいて皇帝が国の土地と人を直接治める仕組みを整えていた。唐は朝鮮半島の高句麗を攻め始め、半島の三国は緊張していた。遣隋使や遣唐使として中国に渡った留学生や僧たちが帰国し、唐の国の仕組みを伝えていた。

645年、日本でいう皇極天皇4年の6月12日、飛鳥板蓋宮で、朝鮮半島の国々からの貢ぎ物を天皇に差し出す儀式が行われていた。その場で、皇極天皇の子の中大兄皇子(のちの天智天皇(中大兄皇子))と中臣鎌足らが、蘇我入鹿に斬りかかった。『日本書紀』によれば、上表文を読み上げる役の蘇我倉山田石川麻呂は、計画を知っていて、なかなか斬りかからない仲間に焦り、汗を流し声を震わせたという。入鹿は天皇の前で斬られた。翌日、父の蝦夷は自分の屋敷に火を放って死んだ。この政変は、その年の干支をとって乙巳の変と呼ばれる。
皇極天皇は位を弟に譲り、孝徳天皇が即位した。中大兄は皇太子となり、実際の政治を動かした。鎌足が補佐し、唐から帰った学者や僧が国博士として政治の相談役に就いた。このとき日本で初めて元号が定められたとされ、「大化」と名付けられた。都は飛鳥から難波へ移された。
翌646年の正月、改新の詔が出されたと『日本書紀』は記す。四つの条からなり、天皇家や豪族が私有していた土地と民をやめて国のものとすること、都や地方の行政の区分を定め、国司や郡司を置くこと、戸籍と計帳を作り、民に田を分け与える班田収授を行うこと、新しい税の仕組みを作ること、が掲げられていた。土地と人を豪族の手から国に移し、唐のような中央集権の国を作る、という方針である。
ただし、この詔の文がどこまで645年当時のものなのかは、長く議論されてきた。『日本書紀』ができたのは720年で(『日本書紀』の完成)、詔の文には、後の時代の律令の言葉で書き直されたと見られる部分がある。とくに、地方の区分を表す「郡」という字は、7世紀の終わりまでは「評」と書かれていたことが、藤原京の跡などから出た木簡で確かめられた。詔の文がそのまま当時のものではないことは、いまでは広く認められている。一方で、難波で発掘された大きな宮殿の跡は、この時代に新しい政治のための都が実際に造られたことを示している。改革がまったくの作り話だったわけでもない。
改革の歩みは、その後も平坦ではなかった。中大兄の改革に協力した石川麻呂は、649年、謀反の疑いをかけられて自害に追い込まれた。663年には、滅んだ百済を助けるために送った軍が、唐と新羅の連合軍に白村江で大敗した(白村江の戦い)。唐が攻めてくることを恐れた朝廷は、九州や瀬戸内に城を築き、国の守りを固めるためにも、中央集権の仕組みづくりを急いだ。中大兄は即位して天智天皇となり、最初の全国の戸籍を作らせた。
天智天皇の死後、672年の壬申の乱を経て天武天皇が即位し、その後の持統天皇の時代に、藤原京という本格的な都が造られた。そして701年、大宝律令が定められ、律令による国の仕組みがようやく整った。乙巳の変からおよそ半世紀後のことである。

かつて大化の改新は、645年の一日で日本の国の形が変わった出来事として教えられてきた。いまは、乙巳の変という政変と、そこから半世紀かけて律令の国家へ向かう長い改革とを分けて考えることが多い。645年は、蘇我氏の権力が倒れ、国の舵が唐の律令にならった中央集権の方向へ切られた年として置くほうが、実際の歩みに近い。中臣鎌足は死の直前に天智天皇から藤原の姓を与えられ、その子孫が、のちに長く朝廷を動かす藤原氏になる。