蘇我氏と物部氏の戦い

概要
仏教を受け入れるかどうかで二つの豪族が争い、蘇我氏が勝った。厩戸皇子が加わっていたと『日本書紀』は書く。以後、蘇我氏の下で仏教と大陸の制度が入ってくる。
場所
34.69°N 135.79°E · 日本・奈良県
本文
6世紀の半ば、朝鮮半島の百済の聖明王が、ヤマトの王権に仏像と経典を贈った(仏教の日本伝来)。年は『日本書紀』では552年、ほかの記録では538年とされる。『日本書紀』によれば、欽明天皇は、西の国の仏の顔はきらきらと美しい、このようなものはかつて見たことがない、と喜んだが、自分では決めかねて群臣に意見を求めた。大臣の蘇我稲目は、西の諸国はみな仏を敬っている、日本だけが背くわけにはいかない、と受け入れを勧めた。大連の物部尾輿と中臣鎌子は、わが国の王は天地の多くの神々を祀ってきた、いま異国の神を拝めば国の神々の怒りを招く、と反対した。天皇は仏像を稲目に預けて、試しに拝ませることにした。
まもなく疫病がはやると、物部尾輿らは、仏を拝んだせいだと訴え、仏像は難波の堀江に捨てられ、寺は焼かれたという。こうした話は、仏教を広めた側の立場から後に整えられたもので、どこまで実際のことかは分からない。ただ、蘇我氏と物部氏の対立が、この時代の朝廷を二つに分けていたことは確かだろう。

二つの氏族は、朝廷での役割も成り立ちも違っていた。蘇我氏は、朝鮮半島から渡ってきた技術者や学者の集団を配下に抱え、朝廷の財政や倉の管理を担って力を伸ばした新しい氏族だった。仏教は、彼らにとって、大陸の進んだ文化と結びつく手段でもあった。物部氏は、古くから軍事と刑罰を担い、神々の祭祀にも深く関わってきた伝統ある氏族である。
対立は、子の世代に持ち越された。蘇我稲目の子の蘇我馬子と、物部尾輿の子の物部守屋である。585年、馬子が建てた仏塔と仏殿を、疫病の流行を理由に守屋が焼かせ、仏像を堀江に捨て、尼たちの衣をはいで鞭打った、と『日本書紀』は書く。同じ年に敏達天皇が亡くなり、馬子の姉妹を母とする用明天皇が即位した。用明天皇は2年後に重い病にかかり、仏の教えに帰依したいと願ったが、守屋はこれに強く反対し、天皇はまもなく亡くなった。
用明天皇の死後、跡継ぎをめぐって争いが表に出た。守屋は穴穂部皇子を立てようとしたが、馬子は先手を打って皇子を殺した。587年7月、馬子は泊瀬部皇子や厩戸皇子(のちの聖徳太子)ら多くの皇子と、紀氏、巨勢氏、膳氏などの豪族を集め、大軍で河内の渋川(いまの大阪府八尾市の辺り)にある守屋の館を攻めた。
守屋の側は、一族と配下の兵で稲城を築いて守り、守屋は大きな木の枝に登って、雨のように矢を射かけた。蘇我の側の兵は恐れて、三度にわたって退いた。このとき、まだ14歳の厩戸皇子が、白膠木(ぬるで)の木を切って四天王の像を刻み、髪に挿して、この戦いに勝たせてくださるなら、四天王のために寺を建てます、と誓った。馬子も、勝てば寺を建てて仏法を広めると誓った。そして、迹見赤檮という者が、木の上の守屋を射落とし、その子たちも殺された。物部の兵は散り散りになって逃げた。
『日本書紀』の伝えるこの場面は、後の世の聖徳太子への崇拝のなかで膨らんだ話とみる研究者も多い。また、この戦いを、仏教を受け入れるか拒むかという信仰の争いとしてだけ見るのではなく、天皇の後継ぎと朝廷の主導権をめぐる豪族どうしの権力争いとして見る考え方が強い。物部氏にも仏教に近い者がいた可能性を指摘する説もある。
戦いのあと、物部氏の本家は滅び、その土地と配下の民の多くは蘇我氏や寺のものになった。泊瀬部皇子が崇峻天皇として即位したが、馬子との関係が悪化し、592年、馬子の差し向けた者に殺される。代わって馬子の姪にあたる推古天皇が即位し(推古天皇の即位)、厩戸皇子と馬子がともに政治を支える時代が来る。
588年、馬子は百済から寺の工人や瓦の職人を招き、飛鳥に日本で最初の本格的な寺院、法興寺(飛鳥寺)の建立を始めた。厩戸皇子が誓った寺は、のちに難波に建てられた四天王寺とされる。ここから、寺と仏像、そして大陸の制度と技術が、蘇我氏の主導のもとで次々に入ってくる。冠位十二階や遣隋使も、その流れの上にある。蘇我氏の力は馬子の子の蝦夷、孫の入鹿の代まで続き、645年の大化の改新につながる政変で、本家が滅ぼされるまで朝廷を動かした。