できごと

藤原仲麻呂の乱

Fujiwara no Nakamaro Rebellion
AD764年(天平宝字8年)
重要度 4
藤原仲麻呂の乱に関わる図版:Sakanoue no Karitamaro Drawing His Bow LACMA M.84.31.256
Sakanoue no Karitamaro Drawing His Bow LACMA M.84.31.256 Wikimedia Commons Tsukioka Yoshitoshi (Japan, 1839-1892) · Public domain

概要

光明皇后の甥で、淳仁天皇を立てて「恵美押勝」を名乗った男が、皇后の死で力を失い、孝謙上皇と道鏡に追い詰められて近江で挙兵し、琵琶湖の岸で捕えられて斬られた。淳仁は淡路に流されて翌年死んだ。上皇が重祚して、道鏡が法王になった。

場所

平城京
34.69°N 135.79°E · 日本・奈良県

本文

藤原仲麻呂は、藤原不比等の孫で、四家に分かれた藤原氏のうち南家の武智麻呂の次男である。737年に天然痘で父と叔父たち四兄弟が相次いで死に、藤原氏はいったん勢いを失った。仲麻呂が頼みにしたのは、叔母の光明皇后だった。学問に秀で、算術にも通じた彼は、聖武天皇と光明皇后のもとで急速に昇進していく。

749年、聖武天皇が娘に位を譲り、孝謙天皇が即位した。仲麻呂は光明皇太后のために新しく作られた役所、紫微中台の長官となり、太政官と並ぶ力を握った。大仏開眼が行われたのはその3年後である。757年、聖武上皇が死んだ翌年、左大臣橘諸兄の子、橘奈良麻呂らが仲麻呂を除こうとする計画を立てたが、密告で露見した。皇族や有力な貴族が捕らえられ、拷問の末に死んだ者も多く、処罰された者は443人にのぼったと記録される。この年、仲麻呂は祖父不比等がまとめた養老律令を施行している。

758年、孝謙天皇は大炊王に位を譲った。淳仁天皇である。大炊王は、仲麻呂の亡くなった長男の妻を妻にして、仲麻呂の屋敷に住んでいた人だった。仲麻呂は「恵美押勝」という名を与えられ、のちに太政大臣にあたる「太師」に上った。役所の名を唐風に改め、貨幣を鋳造し、新羅を攻める計画まで立てた。唐で安史の乱が起きたと伝わると、反乱の余波が日本に及ぶことを恐れ、九州の守りを固めさせている。唐の制度に憧れ、唐に倣った政治を進めた人だった。

後ろ盾を失ったのは760年である。光明皇太后が死ぬと、仲麻呂と孝謙上皇とのあいだの溝が深まった。761年、近江の保良宮で病に伏した上皇を、僧の道鏡が看病して治した。上皇は道鏡を深く信頼するようになり、それをいさめた淳仁天皇と対立する。762年、上皇は、国家の大事と賞罰は自分が行い、天皇は祭祀などの小事だけを行え、と宣言した。天皇の背後にいる仲麻呂の力は、目に見えて削られていった。

764年9月、仲麻呂は畿内と周辺の国々の兵を集める権限を得て、兵力を蓄えようとした。だがその動きは上皇の側に漏れた。上皇は先手を打って淳仁天皇のもとから、兵を動かすのに欠かせない駅鈴と天皇の印を回収させた。仲麻呂の子が奪い返そうとして討たれ、仲麻呂は朝敵とされて、一族とともに都を脱出した。上皇の側で作戦を立てたのは、かつて仲麻呂に九州へ遠ざけられていた吉備真備だったとされる。

仲麻呂は、自ら長く国守を務めて地盤としていた近江の国府を目指したが、追討軍が先回りして瀬田の橋を焼いていた。やむなく琵琶湖の西岸を北へ進み、子が国司をしていた越前へ逃れようとしたが、越前の子はすでに殺され、国境の愛発の関も閉ざされていた。仲麻呂は連れていた皇族の氷上塩焼を「今帝」として天皇に立て、自分の側の正統を唱えたが、兵は離れていった。湖の西岸の高島郡で追討軍と戦い、湖へ船で逃れようとしたところを捕らえられ、9月18日、妻子とともに斬られた。乱は挙兵からわずか1週間ほどで終わった。

10月、淳仁天皇は位を奪われて淡路島に流され、翌年、逃げようとして捕らえられ、まもなく死んだ。長く「淡路廃帝」と呼ばれ、淳仁という名が贈られたのは明治になってからである。孝謙上皇は再び位に就いて称徳天皇となり、道鏡は太政大臣禅師、さらに法王へと上った。769年には、道鏡を天皇にせよという神託をめぐる騒ぎが起きる(宇佐八幡神託事件)。称徳天皇が770年に死ぬと道鏡は退けられ、天皇の位は天智天皇の系統の光仁天皇へ移った。

仲麻呂の評価は分かれる。律令の仕組みを整え、地方の政治を引き締めた有能な官僚だったという見方がある一方で、天皇を自分の家に住まわせ、国を私物化した権力者だったとも言われる。藤原氏の中で権勢を誇った南家は乱で大きく傷つき、のちに摂関家となる北家が台頭していく。

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