渤海の建国
概要
高句麗が滅びて30年、その遺民と靺鞨が満洲東部に国を建てた。唐の制度と文字を写し、日本へ34回使節を送る。「海東の盛国」と呼ばれた。
場所
44.12°N 129.17°E · 中国・黒竜江省寧安市
関わった人(1)
大祚栄?–AD719年 · 建国本文
668年、唐と新羅の連合軍が平壌を落とし、高句麗は滅んだ(高句麗の滅亡)。唐は高句麗の王族や有力者、多くの民を、遼西の営州(いまの遼寧省朝陽)などへ移した。新羅は676年までに唐の軍を半島から押し出し、朝鮮半島の中南部を一つにまとめる(新羅の朝鮮半島統一)。だが半島の北から満洲にかけての広い土地は、どの国の手にもしっかりとは収まっていなかった。
696年、営州で契丹が唐に背いて反乱を起こした。その混乱の中で、高句麗の遺民と、靺鞨と呼ばれる満洲の諸部族が東へ逃れた。率いたのが乞乞仲象とその子の大祚栄である。大祚栄の出自が高句麗人か靺鞨人かは、古い史書の書き方が分かれていて、今も議論がある。唐の追撃軍を天門嶺で破った大祚栄は、698年、東牟山(いまの吉林省敦化の近く)に拠って国を建てた。

初めは震国と名乗った。唐はやがて大祚栄を討つのをあきらめ、713年に渤海郡王に封じた。以後、国は渤海と呼ばれる。二代目の大武芸は領土を広げ、唐と対立して、海を渡って山東半島の登州を襲わせたこともある。
国の形を整えたのは、三代目の大欽茂だった。57年に及ぶ在位のあいだに、唐の三省六部を写した役所を置き、国土を五つの京と15の府に分けた。都はいくどか移され、最も長く都となったのが上京龍泉府である。都の北に宮殿を置き、南へ朱雀大路を通す。外城の周囲は16キロに及び、唐の長安を小さくした形をしている。公の文書は漢字で書かれ、仏教が栄えた。

唐は渤海を「海東の盛国」と呼んだ。海の東の栄えた国、という意味である。762年には、唐は大欽茂の位を「渤海郡王」から「渤海国王」へ引き上げ、一つの国として遇するようになった。唐の都には渤海から留学生が送られ、外国人のための科挙に合格する者も出た。
渤海は日本とも深く結ばれた。727年に最初の使節が日本へ来る。この使節は出羽の沿岸に着き、そこで多くが殺されたが、生き残った者が平城京にたどり着いた。以後、渤海は34回にわたって使節を送った。
南の新羅と日本の仲が冷えていた時代、新羅を挟んで向き合う渤海は、日本にとっても大事な相手だった。渤海が日本へ送った国書の中で、自らを「高麗国王」と名乗ったこともある。高句麗の後継を自任していたことがうかがえる。
やがて使節の目的は、政治から交易へ移っていった。渤海は黒貂などの毛皮や蜂蜜、人参を持ち込み、日本は絹や綿を持たせて帰した。使節を迎える費用がかさむため、日本の朝廷は来航を12年に一度に制限したほどである。迎えた側の文人たちは、使節と漢詩を交わした。菅原道真も、渤海の大使と詩を詠み交わしている。

渤海の文化は、遺跡からも見えてくる。792年に葬られた王女の墓には、唐風の衣装を着た侍女や楽人の姿が壁画として描かれていた。日本へは渤海の音楽も伝わり、平城京(平城京遷都)の宮廷で演奏された。満洲の森と海で育った国が、唐の文化を受け入れ、それを日本へ中継する役割も果たしていたことになる。
926年、西から勢力を伸ばした契丹(契丹(遼)の建国)の耶律阿保機が上京を落とし、渤海は滅んだ(渤海の滅亡)。建国から228年あまりだった。遺民の一部は南の高麗へ逃れた。
渤海を誰の歴史とするかは、いまも国ごとに見方が違う。中国では唐の地方政権として扱われ、韓国や北朝鮮では高句麗を継いだ国として自国の歴史に組み入れ、統一新羅と並ぶ「南北国時代」と呼ぶ。上京龍泉府の跡は、中国黒竜江省の寧安にあり、宮殿の礎石が今も並んでいる。