持統天皇
概要
天智の娘で天武の妻。壬申の乱を夫と共に吉野から戦い、夫の死後、息子を失って自ら即位した。飛鳥浄御原令を施行し、藤原京を建て、孫に譲って最初の太上天皇になった。「春過ぎて夏来にけらし」の歌はこの人のもの。
所属
日本関わったできごと(1)
藤原京AD694年 · 天皇本文
持統天皇は、名を鸕野讚良皇女という。645年、大化の改新の始まりとなる乙巳の変の年に生まれた。父は中大兄皇子、のちの天智天皇(中大兄皇子)。母は改新の功臣の一人、蘇我倉山田石川麻呂の娘の遠智娘である。

幼いころに、身内の悲劇を見た。649年、祖父の石川麻呂が謀反の疑いをかけられ、山田寺で妻子とともに自害した。その讒言を受けて兵を差し向けたのは、父の中大兄が支える朝廷だった。母は父親の死を嘆くあまり、まもなく世を去ったと『日本書紀』は伝える。皇女はまだ5歳ほどだった。
13歳で、父の弟の大海人皇子に嫁いだ。姉の大田皇女も同じ大海人の妃になっている。662年、白村江の戦いに向けて朝廷が九州に移っていたとき、筑紫の娜大津で草壁皇子を産んだ。姉の大田皇女も翌年に大津皇子を産んだが、若くして亡くなった。
671年の秋、天智天皇が重い病に伏し、大海人は後継ぎの座を辞退して出家し、吉野へ去った。鸕野讚良は夫に従って吉野に入った。翌672年6月、大海人は吉野を出て東国へ向かい、天智の子の大友皇子の朝廷と戦った(壬申の乱)。皇后となる彼女も伊賀から伊勢、美濃へと夫に同行し、戦いの間は伊勢の桑名にとどまった。『日本書紀』は、彼女が初めから終わりまで夫を助け、ともに謀を立てて天下を定めた、という意味のことを記している。

夫は即位して天武天皇となり、彼女は皇后になった。天武の時代は、天皇を中心とする国家の骨組みが作られた時代である。法令の編纂が始まり、歴史書の編纂が命じられ、新しい都の計画が立てられた。皇后はそのすべてを間近で見ていた。
686年、天武が死んだ。後を継ぐはずだったのは、皇后の産んだ草壁皇子である。ところが天武の死からひと月もたたないうちに、大津皇子が謀反を企てたとして捕らえられ、翌日に死を賜った。姉の子で、学問にも武芸にも優れ、人望では草壁をしのいでいたと言われる皇子だった。大津の妃は髪を振り乱して後を追ったと伝わる。この事件に皇后の意思がどれほど働いていたのかは分からないが、わが子の道を開いたことは確かである。

ところが、その草壁は即位しないまま689年に28歳で死んだ。残された孫の軽皇子はまだ7歳。皇后は翌690年、自ら即位した。持統天皇である。同じ年、海の向こうの唐では則天武后の即位が起きている。
持統の治世は、天武が始めたことを仕上げる時間だった。即位の前年には飛鳥浄御原令を施行し、690年には庚寅年籍と呼ばれる全国の戸籍を作らせた。この戸籍はその後、6年ごとに作り直す班田の基礎になった。694年には、日本で初めての碁盤目状の都、藤原京へ遷った。

彼女はよく旅をした。特に吉野へは在位中だけで30回あまり出かけている。夫と過ごした吉野の日々を思ってのことだったのか、天武の権威を受け継ぐ儀式だったのか、理由は分からない。692年に伊勢へ行幸しようとしたとき、中納言の三輪高市麻呂が、田植えの時期に農民を煩わせると、冠を脱いで職を賭して諫めた。持統は聞き入れず、そのまま出かけた。
697年、15歳になった孫の軽皇子に位を譲った。文武天皇である。生きたまま位を譲った天皇には前例があったが、持統は「太上天皇」という称号を名乗った最初の人になり、若い天皇の後ろで政治を見続けた。701年の大宝律令の完成も、この体制のもとでのことである。

702年の暮れ、持統は死んだ。数えの58歳。遺言によって火葬にされた。天皇として初めての火葬である。遺骨は銀の器に納められ、天武の眠る檜隈大内陵に合葬された。夫婦が一つの陵に眠る例は珍しい。だが1235年、この陵は盗掘に遭った。当時の記録によれば、天武の遺骨は散らされ、持統の遺骨は器ごと持ち去られ、器を奪った盗人が骨を道ばたに捨てていったという。
持統の歌として最も知られるのは、百人一首の「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山」である。藤原宮から見える香具山に、白い衣が干されている初夏の景色を詠んだ歌で、『万葉集』では「夏来たるらし」「衣乾したり」と、目の前の光景をそのまま言い切る形になっている(『万葉集』の成立)。後の時代に写し伝えられるうちに、少し柔らかな伝聞の歌に変わったのである。