宇佐八幡神託事件
概要
「道鏡を皇位に就ければ天下は太平」という神託が宇佐から届いた。和気清麻呂が確かめに行き、「臣を君にしてはならない」という逆の神託を持ち帰った。大隅に流された。翌年、天皇が死んで道鏡も落ちた。
場所
33.53°N 131.38°E · 大分県
関わった人(2)
道鏡?–AD772年 · 法王孝謙天皇(称徳天皇)AD718年–AD770年 · 天皇本文
奈良時代の半ば、天皇の位は天武天皇の血筋の中で受け継がれていたが、男の跡継ぎは次々に絶えていた。聖武天皇の娘である孝謙天皇(称徳天皇)は、女性で独身のまま即位し、跡継ぎを持たなかった。いったん位を淳仁天皇に譲ると、実権は淳仁を立てた藤原仲麻呂に移る。宇佐八幡の神託をめぐる事件は、この行き場の無い皇位の問題の上に起きた。
道鏡は河内の弓削氏の出の僧で、葛城山で修行し、宮中の仏堂に仕えるようになった。761年から翌年にかけて、近江の保良宮で病に伏した孝謙上皇を看病して治し、深く信頼される。上皇が道鏡を寵愛すると、淳仁天皇と仲麻呂は諫め、両者の溝は深まった。764年、追い詰められた仲麻呂は兵を挙げたが、近江で敗れて斬られた(藤原仲麻呂の乱)。淳仁は淡路に流され、翌年そこで死ぬ。上皇は再び位に就き、称徳天皇となった。

ここから道鏡の出世は異例の速さで進む。太政大臣禅師、そして766年には法王となり、天皇に準じる待遇を受けた。弟の弓削浄人は大納言に上り、一族も取り立てられる。称徳は戦乱で死んだ者を弔うために西大寺を建て、百万基の小さな木の塔に経を納めて諸寺に分けさせた。仏教の力で国を治めるという考えが、いちばん強く表に出た時代である。
769年、九州の大宰府で神職をつとめていた習宜阿曽麻呂が、宇佐八幡の神託を朝廷に伝えた。道鏡を皇位に即ければ天下は太平になる、という内容である。宇佐八幡は、聖武天皇が大仏を造ったときにも神託で協力を申し出て都に迎えられた神で(大仏開眼)、朝廷にとって重い存在だった。称徳は真意を確かめるため、側近の尼、広虫の弟である和気清麻呂を宇佐に遣わした。道鏡は出発する清麻呂に、良い報せを持ち帰れば高い位を与えると持ちかけたと伝えられる。

清麻呂の姉の広虫は、称徳が出家したのに従って尼となり、法均と名乗って側近く仕えていた。仲麻呂の乱のあと、戦で親を失った子どもたちを引き取って養ったとも伝えられる。称徳が宇佐への使いに清麻呂を選んだのは、この姉への信頼があったからだろう。なお、称徳が作らせた百万の塔に納められた経は木版などで刷られたもので、刷った年代の分かる印刷物として世界で最も古い部類に入る。
清麻呂が持ち帰ったのは、逆の神託だった。『続日本紀』によれば、その言葉はおよそ次のようなものだ。わが国は始まって以来、君と臣の分が定まっている。臣を君にしたことはない。天皇の位には必ず皇族を立てよ。道に外れた者は早く除け。称徳は激怒し、清麻呂を別部穢麻呂と改名させて大隅へ、広虫も別部狭虫と改名させて備後へ流した。後の清麻呂の伝記は、道鏡が道中に刺客を差し向けたこと、宇佐への旅で足を痛めた清麻呂を数百頭の猪が守って運んだことなどを伝えるが、これは後に生まれた伝承とみられる。

結末はあっけなかった。770年8月、称徳は平城宮(平城京遷都)で世を去る。数えで53歳だった。後ろ盾を失った道鏡はすぐに失脚し、下野国の薬師寺の長に落とされて、772年にその地で死んだ。皇位は天武の血筋を離れ、藤原氏の重臣たちが推した天智天皇の孫、光仁天皇が継いだ。その子が桓武天皇である。清麻呂は都に呼び戻されて重く用いられ、平安京の造営(平安京遷都)にも関わったとされる。のちに忠臣の手本とされ、明治以後には紙幣の肖像にもなった。
事件の真相には分からないことが多い。道鏡が本当に皇位を望んだのか。称徳が自ら道鏡に位を譲ろうとして神託を求めたのか。最初の神託を作らせたのは誰で、清麻呂の神託の裏に誰がいたのか。残っている記録は、道鏡が退けられた後の朝廷がまとめたものである。確かなのは、この事件のあと、皇族でない者が天皇になるという筋道が二度と真剣に語られなくなったことだ。女性の天皇も、称徳を最後に江戸時代まで現れなかった。