人物

近肖古王

Geunchogo of Baekje
? – AD375年
百済重要度 3

概要

百済の第13代。馬韓の残りを取り、高句麗の王を平壌で殺し、東晋に朝貢して鎮東将軍の号を受けた。倭の王に七支刀を贈った。刀は石上神宮にあり、「泰和四年」の銘がある。博士高興が『書記』を編んだが、残っていない。

所属

百済

関わったできごと(1)

近肖古王の平壌攻めAD371年 · 王

本文

百済の第13代の王。346年に即位し、375年まで30年にわたって王位にあった。第11代比流王の次男とされる。先代の契王は別の系統の王で、王位はこの代で再び比流王の家に戻った。「近肖古」という名は、2世紀の第5代肖古王に「近い」、つまり後の肖古王という意味で、続く王たちも近仇首王、近蓋鹵王と、古い王の名に「近」を付けて名乗った。王家の系統が替わったとき、遠い祖先の名を借りて正統を示したのではないかと考える研究者が多い。

石村洞古墳群3号墳ソウル特別市松坡区。近肖古王の墓とする説が有力視される。
石村洞古墳群3号墳ソウル特別市松坡区。近肖古王の墓とする説が有力視される。Wikimedia Commons Saigen Jiro · CC0

百済は漢江の流域から起こった国で(百済の建国(伝承))、4世紀の半ばにはまだ朝鮮半島の西南部に馬韓の小国が多く残っていた。近肖古王の時代に百済は南へ勢力を広げ、馬韓の残りの国々をほぼ従えたと考えられている。『日本書紀』の神功皇后49年の条には、倭の軍が新羅を破り、南の地域を平定して「南蛮の忱弥多礼」を百済に与えたという話がある。この年は干支を二巡り(120年)ずらすと369年にあたる。もともと百済側の記録にあった百済の南方平定の話を、倭を主語に書き換えたものと読む研究者が多いが、解釈には議論がある。

北では、楽浪郡の滅亡後に南へ伸びてきた高句麗とぶつかった。369年、高句麗の故国原王が2万の兵で南下して雉壌に陣を構えると、百済の太子(のちの近仇首王)がこれを奇襲して破り、5000人余りを捕らえた。371年にも高句麗が攻めてきたが、百済は浿河のほとりで待ち伏せて退けた。同じ年の冬、近肖古王は太子とともに3万の兵を率いて北へ進み、高句麗の平壌城を攻めた(近肖古王の平壌攻め)。故国原王は防戦の中で流れ矢に当たって死んだ。一国の王が戦場で討たれたのである。このあと近肖古王は都を漢山に移した。故国原王の孫が、のちに百済を激しく攻める好太王である。

ソウル石村洞古墳群(近肖古王の時代の百済の古墳)
ソウル石村洞古墳群(近肖古王の時代の百済の古墳)Wikimedia Commons Saigen Jiro · CC0

372年、近肖古王は東晋に使いを送った。『晋書』は、百済王の余句を鎮東将軍・領楽浪太守に任じたと記す。百済の名が中国の正史に現れるのはこれが最初である。楽浪郡は313年に高句麗が滅ぼしていて、もう存在しない。平壌を攻めた翌年に、その地の太守の肩書きを中国の王朝から受けたことになる。高句麗と争う百済にとって、南朝の権威は力強い後ろ盾だった。同じ年、高句麗は北の前秦から仏教を受け入れている(高句麗への仏教伝来)。二つの国は、それぞれ別の中国の王朝と結んで張り合っていた。

南の海の向こうの倭とも、この王の時代に交わりが始まった。奈良の石上神宮には、刀身の左右に三本ずつ枝が出た不思議な形の鉄剣、七支刀が伝わる。1874年、大宮司だった菅政友が錆を落として金象嵌の銘文を読み出した。表には「泰□四年」の年紀と、百たび鍛えた鉄でこの七支刀を造った、百の兵を避けることができ、侯王に供えるのにふさわしい、という意味の文字がある。裏には、百済王の世子が倭王のために造った、後の世に伝え示せ、という意味の文字がある。年号は東晋の太和4年(369年)と読むのが有力である。『日本書紀』の神功皇后52年の条には、百済の使者が「七枝刀」と七子鏡を献じたとあり、120年ずらすと372年になる。

ただ、銘文は錆で欠けた字が多く、百済が倭に献上したのか、上の立場から下賜したのか、対等な国として贈ったのかをめぐって、日本と韓国の研究者のあいだで100年以上議論が続いている。一振りの剣が、古代の二つの国の関係の読み方を今も左右している。

『古事記』は、百済の照古王が阿知吉師に牡馬と牝馬を付けて献じ、さらに和邇吉師が『論語』と『千字文』をもたらしたと書く。照古王は近肖古王のこととみられる。ただし『千字文』は6世紀の梁で作られた本で、時代が合わない。後世の知識が混ざった伝承である。

『三国史記』は、近肖古王の時代に博士の高興が初めて『書記』を著したと伝える。百済が文字で自国の歴史を記録し始めたのはこのときからだという。その『書記』は失われ、内容は分からない。375年、高句麗に北の水谷城を奪われた年の11月に、近肖古王は死んだ。南は馬韓を従え、北は高句麗の王を討ち、海を越えて東晋と倭とも結んだ。百済の最も勢いのあった時代を開いた王として記憶されている。

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