磐井の乱
概要
筑紫の首長磐井が、新羅と結んで、ヤマトの半島派遣軍を止めた。一年半戦って敗れる。列島の政権が九州を直接押さえた最初で、磐井の墓とされる岩戸山古墳には石人石馬が並ぶ。
場所
33.21°N 130.56°E · 福岡県
本文
6世紀のはじめ、朝鮮半島の南端の伽耶の小国は、東の新羅と西の百済に挟まれて少しずつ削られていた。ヤマトの王権は伽耶と古くから結びつき、鉄をはじめとする半島の物資をそこから得ていた。継体天皇は越前から迎えられて即位した王で(継体天皇の即位)、その治世に、半島をめぐる争いと列島の中の争いが重なった。
『日本書紀』によれば、継体21年(527年)6月、近江毛野臣が6万の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅(金官伽耶の建国(伝承))などを取り戻すため、任那へ向かおうとした。このとき筑紫国造の磐井は、ひそかに反逆を企てていた。新羅はそれを知って磐井に賄賂を送り、毛野臣の軍を止めるよう頼んだ。磐井は火(肥)と豊の国まで勢力を広げ、海の道を押さえて、高句麗・百済・新羅・任那から毎年来る船を自分のもとへ誘い込み、毛野臣の軍の行く手をふさいだという。

『書紀』は磐井の言葉も載せている。「今でこそ使者だが、昔はわが仲間として、肩を並べ肘を触れ合い、同じ器で同じものを食べた。使者になったからといって、にわかに私を従わせられると思うのか」。ヤマトから来た将軍と九州の首長が、かつて同じ場所で仕えたことのある仲間だったと読めるこの一節は、当時の王権と地方の首長の関係をうかがわせるものとして、よく引かれる。
継体は物部麁鹿火を大将軍に任じ、「長門より東は自分が治める、筑紫より西はおまえが治めよ。賞罰も思いのままにせよ」と言って送り出したとされる。翌528年11月、麁鹿火は筑紫の御井郡(いまの久留米のあたり)で磐井と戦い、激しい戦いの末に磐井を斬った。12月、磐井の子の葛子は、父の罪に連座することを恐れて、糟屋の屯倉を献上して死を免れた。屯倉は王権の直轄地であり、博多湾に面した糟屋がヤマトの手に入ったことになる。『古事記』はこの戦いをごく短く記し、物部荒甲と大伴金村が派遣されて石井(磐井)を殺したとしている。

鎌倉時代の書物に引かれて残った『筑後国風土記』の逸文には、別の結末が書かれている。磐井は生きているうちに自分の墓を造っていた。墓の周りには石の人と石の盾が並び、北東の隅には「衙頭」と呼ぶ一角があって、裁判の場面をかたどった石の像が置かれていた。磐井は戦いに敗れると、一人で豊前の国の山の中へ逃げ、そこで行方が知れなくなった。追っ手は怒りのやり場をなくし、墓の石人の手を打ち折り、石馬の頭を打ち落としたという。
福岡県八女市の岩戸山古墳は、全長約135メートルの前方後円墳で、北部九州で最も大きい。この古墳を磐井の墓とする説は、風土記の記す位置と大きさがよく合うことから、広く認められている。墳丘の北東には、風土記の「衙頭」にあたるとみられる方形の区画があり、阿蘇の凝灰岩で作った石人や石馬が多く見つかった。中には、頭や手が欠けたものがある。千四百年前の書物の記述と、地面から出てきたものとが、ここで結びついている。
こうした石の人形や馬を古墳に立てる習わしは、筑後から肥後にかけての北部・中部九州に特有のもので、近畿の古墳が埴輪を並べるのとは違う。磐井とその一族が、ヤマトとは異なる独自の葬りの文化を持ち、有明海の周辺に広い勢力を築いていたことが、この石の像からうかがえる。磐井の乱ののち、石人石馬はほとんど作られなくなった。
この戦いをどう呼ぶかには議論がある。『書紀』は王権に背いた「反乱」として書くが、磐井はもともと半ば独立した九州の大首長であり、新羅と結ぶか百済とヤマトの側に立つかという外交の選択をめぐる、二つの勢力の戦争だったとみる研究者も多い。『書紀』の記事には後の時代の脚色も含まれるとされる。
いずれにしても、戦いのあと、ヤマトの王権は北部九州を直接押さえるようになった。536年には博多湾に那津官家が置かれ、のちの大宰府へつながる拠点となる。一方、半島の情勢は戻らなかった。南加羅は532年に新羅に降り、562年には伽耶の残りも新羅に併合された。磐井を倒した物部氏は、こののち大連として権勢をふるい、半世紀あまりのちに蘇我氏と争って滅ぶ(蘇我氏と物部氏の戦い)。