できごと

漏剋

Tenji's water clock
AD671年(天智10年)4月25日
重要度 3
古シベリアの狩猟採集民北極圏の海獣狩猟民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民唐突厥吐蕃タイ系の諸王国アイヌKamarupa真臘ドヴァーラヴァティー扶南日本新羅チャンパAD671年(天智10年)4月25日大津(近江大津宮)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD671年(天智10年)4月25日の版図を描いています(15勢力)。

概要

天智天皇は近江大津宮で、水時計を新しい台に据え、鐘と鼓を打って時を知らせ始めたと『日本書紀』は記す。桶から桶へ一定の速さで水を落とし、溜まった水に浮かべた目盛りで時刻を読む。役人は、その合図で宮に出仕し、合図で退く。時を知らせることは、人を同じ時刻に動かすことである。時刻は天子が与えるものだという考えは、唐の国から学んだ。のちにこの日にちなんで、6月10日が「時の記念日」と定められた。

場所

大津(近江大津宮)
35.02°N 135.86°E · 滋賀県

関わった人(1)

天智天皇(中大兄皇子)AD626年–AD672年1月7日 · 時を知らせ始めた

本文

漏剋(漏刻)とは、水の流れで時を計る時計である。仕組みはこうだ。高いところに水を入れた桶を置き、その下にまた桶を置き、さらにその下にも桶を置く。何段かに重ねた桶の間を、細い管で水が上から下へ少しずつ落ちていく。いちばん下の桶には、目盛りを刻んだ矢を浮かべておく。水が溜まるにつれて矢が少しずつ持ち上がり、その目盛りで時刻を読む。

桶を何段も重ねるのには理由がある。桶が一つだけだと、中の水が減るにつれて水の押す力が弱まり、落ちる速さが鈍っていく。それでは時の進み方が一定にならない。途中にいくつもの桶を挟むと、上の桶の水位の変化がならされ、いちばん下の桶へ落ちる水の速さがほぼ一定に保たれる。こうした水時計は、中国で古くから使われ、工夫が重ねられてきた。

天智天皇の肖像(狩野探幽画)
天智天皇の肖像(狩野探幽画)Wikimedia Commons Kanō Tan ' yū · Public domain

『日本書紀』によれば、660年(斉明天皇6年)5月、皇太子の中大兄皇子が初めて漏剋を造り、民に時を知らせたという。のちの天智天皇(中大兄皇子)である。奈良県明日香村の水落遺跡では、1981年の発掘で、建物の基壇の中に、水を引き込む木の樋や銅の管を組み込んだ跡が確かめられた。この遺構は、中大兄が造った漏剋の跡だと考えられている。地中に据えた太い柱の跡もあり、水時計を収め、時を告げる鐘や鼓を備えた楼閣が建っていたとみられる。

それから十一年後、中大兄は天皇として即位し、都を近江の大津宮へ移していた。『日本書紀』は、671年(天智天皇10年)4月25日、漏剋を新しい台に置き、初めて鐘と鼓を打って時刻を知らせたと記している。都の人々が、宮から響く鐘と鼓の音で時刻を知るようになったのである。

蘇我入鹿の首を刎ねる中大兄皇子(乙巳の変)。左上は皇極天皇。談山神社所蔵『多武峰縁起絵巻』(江戸時代)
蘇我入鹿の首を刎ねる中大兄皇子(乙巳の変)。左上は皇極天皇。談山神社所蔵『多武峰縁起絵巻』(江戸時代)Wikimedia Commons Gukei Sumiyoshi · Public domain

なぜ天智天皇は、時を知らせることにこれほど力を入れたのか。当時の倭国は、唐にならって、律令に基づく国の仕組みを作ろうとしていた。663年の白村江の戦いで唐と新羅の軍に大敗した後で、国の守りを固め、豪族の寄り合いではなく、天皇を頂点とする役人の組織で国を治める必要に迫られていた。

役人の組織を動かすには、時刻をそろえなければならない。役人たちが決まった時刻に宮の門をくぐって出仕し、決まった時刻に仕事を終えて退出する。朝廷の儀式も、決まった時刻に始まる。宮の門が開く時刻、閉じる時刻も定められる。そのためには、誰もが同じ時刻を知る仕組みが要る。鐘と鼓の音は、宮の中の人々を、同じ時刻に向かって動かすための合図だった。

近江大津宮跡 内裏正殿跡
近江大津宮跡 内裏正殿跡Wikimedia Commons Saigen Jiro · CC0

唐の国には、時刻は天子が民に与えるものだという考えがあった。暦も同じである。太陽と月と星の動きを観測して、季節の移り変わりを知り、それを暦として民に授けることが、天の命を受けた天子の務めとされた。時を知らせることは、天の動きを知る力を持つ者の権威を示すことでもあった。天智天皇の漏剋は、その考えを日本に持ち込んだものだったと言える。

この仕組みは、のちの律令制度の中で役所の仕事として整えられた(大宝律令)。暦や天文、占いを扱う陰陽寮に、漏刻を管理する専門の博士が置かれ、その下で時を守る役の者たちが、昼も夜も水時計の目盛りを読み、時刻ごとに鐘と鼓を打った。時刻を正しく告げることは、国の大事な務めの一つだった。

『古今偉傑全身肖像』(1899年ごろ)
『古今偉傑全身肖像』(1899年ごろ)Wikimedia Commons Published by 東京造画館 ("Tokyo Drawing Pavillion", if translated literally) · Public domain

それから千二百五十年近くたった1920年(大正9年)、この『日本書紀』の記事にちなんで、6月10日が「時の記念日」と定められた。天智天皇10年4月25日という日付を、いまの暦に直すと6月10日にあたるからである。記念日を定めたのは、国民の暮らしの改善を呼びかける団体だった。

大正の日本では、時間を守ることを国民に教え込もうとする動きが盛んだった。工場では大勢の工員が同じ時刻に働き始め、学校では鐘で授業が始まり、鉄道は時刻表どおりに走る。遅刻をしないこと、約束の時間を守ることが、近代の文明国の国民のしるしとされていた。時の記念日には、各地で時間の大切さを説く催しが開かれ、人々に時計を持つことが勧められた。

天皇系図 38~50代
天皇系図 38~50代Wikimedia Commons nnh · CC BY 2.5

天智天皇を祀る大津の近江神宮では、いまも毎年6月10日に漏刻祭が行われ、境内には漏刻を復元したものが据えられている。時計に関わる人々が集まり、時を計ることの始まりを祝う。

時を知らせる者は、人々の時を握る者でもある。その考えは、このあともずっと続いた。宋の都では、天文の観測と時刻の告知を兼ねた巨大な水力の時計塔が造られた(水運儀象台)。明治の東京では、正午を知らせる大砲が毎日撃たれた(午砲)。いまは電波や通信の網が、国の定めた正確な時刻を、身の回りの時計や携帯電話にまで送り届けている。宮から響く鐘と鼓の音で動き始めた人々の一日は、形を変えながら、いまも誰かが告げる時刻に合わせて動いている。

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